劇評講座

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■優秀賞■【伊豆の踊子】寺尾眞紀さん

カテゴリー: 2023

冒頭、出演者全員が横並び一列になって『伊豆序説』を色とりどりの声で語ってゆく。それぞれの声は公平に響く。物語と登場人物をいったんひとつの塊にしてから、等分に切り分けて並べたようだ。旅が始まると、運命は別れ境遇は異なっていく。けれど終盤でもう一度、この「それぞれの公平な重さ」を大音量で突きつけられることになる。
数えで二十歳の学生である主人公は、一人旅の孤独を抱えながらも先々で下にも置かぬ扱いを受ける。茶店では、学生だけが暖かい火の近くに通される。雨に降られ濡れるのは、旅芸人一座の女性の方が辛かっただろうに。険しい坂を一番乗りに登れるのは、彼が若く軽装だからだ。踊り子の背負う太鼓が想像より重いことに驚くが、自分の荷が軽いことには思い至らない。彼が善良で繊細な心の持ち主であることは疑いようがないので、原作のこれら小さな鈍感さは、ちくちくと棘のように気になっていた。
舞台は大きな段差で上下に分断されている。「上」の旅館の明るく広々とした学生の居室と、「下」の片隅の木賃宿で身を寄せ合う旅芸人たちの冷たく固い寝床は、別世界だ。
踊り子は、自らの境遇を僻むこともなく学生にあれこれと尽くす。学生は踊り子の見かけを裏切る無邪気さに「子どもなんだ」と安堵する。実は学生自身の世間との関わり方も、少々子どもっぽい。小説は一般に「恋物語」と呼ばれるが、二人の関係は恋未満に見える。原作の最後の不器用で曖昧な決着のつけ方、ぐずぐずとした情けなさは、映画の二枚目俳優の凛々しさとは正反対だが、その不完全さが物語の真の魅力と感じる。
多田淳之介版『伊豆の踊り子』は、小説とも映画とも異なる解釈と方法で物語を終わらせている。それは、まだ十九歳だった「私」が、心の底で望んでいた本来の結末のように見えた。
小説(および映画のいくつか)には、大きな棘もある。
客の中には、踊り子を金銭で買える性的対象として見る者もいる。「生娘」という呼び方、これは当人の関わらぬところで貼られる危険なレッテルだ。一座は、薫の若さと容姿を商売上利用しつつ、その身は守りたいというジレンマに苦しんでいる。兄、栄吉の「妹だけはこの境遇から救いたい」という思いは切実だ。対して学生は踊り子の精神年齢に安心して、一座が連れている子犬でも可愛がるような快さを覚えている。薫の身を案じて悪夢にうなされるが、彼女を救いたいというより自分を癒すイメージを失いたくないのであって、好色な視線を向ける客の男たちと全く反対側にいる、とも言い切れない。原作では髪型や装いが踊り子を大人びて蠱惑的に見せており、それが「私」を、そして男たちを惹きつける。今日の旅芸人一座のいでたちは、時代を跨いだ歌舞伎者めいた派手さが楽しい。不思議な統一感はあるが個性はバラバラだ。薫の衣装もその踊りも媚びたアイドル風ではなく、それが彼女を守っていた。
緊張して要領を得ない返事をしたり、お茶をこぼしたりする様子から、薫は幼さ拙さが目立つ少女、とミスリードされがちだ。しかし彼女は明らかに学生より目端が利いており、好奇心が強く、物語を聴くことに飢えて情熱を見せる。無垢=知性が低い、であるはずはないが、そうであれば御し易い。男たちが生娘=無垢のイメージにこだわるのは、それが理由だろう。舞台の薫は、無垢であっても利発で活発な少女だった。学生も、五目並べで彼女に楽勝できないことを呑気に「不思議」などと考えるべきではないのだ。
もうひとつの大きな棘は、病床で明日をも知れない酌婦のお清。踊り子の最悪の近い将来になり得たかもしれない、合わせ鏡のような少女は『伊豆の踊り子』の原作には登場しない。いくつかの映画の脚色で加えられた、別の川端作品『温泉宿』の登場人物だ。芸人たちは血の通った人間で、その旅は牧歌的に見えても一歩間違えば危ういものだ。お清の死の挿話は、それを思い出させる。彼らは伊豆の自然のように「観光客の視界を美しく流れてゆく風景」ではない。
病床を見舞った薫に、お清は力なく微笑むが耐えきれず一瞬泣き顔になるのが痛々しい。が、その後お清は布団から抜け出し、本物の笑顔になって足取り軽く舞台を去る。彼女の命が尽きて苦しみのないあの世に行った、と受け取れるが、同時に、理不尽な役柄を脱ぎ捨てて、文字通り次のステージに向かったようにも見える。実際、観客は違うステージの「お清ちゃん」に何度も出会うのだ。
お清を看取ってくれるのが、お咲さん。枕元での、このままじゃ許さないよと言わんばかりの厳しい表情があってこそ、後半の爆発的な明るさと弾け方が活きる。お咲は、お清と同じく『温泉宿』の登場人物のひとりであり、「生まれながらの酌婦」と烙印を押された存在だ。この烙印は、踊り子が「無垢で御し易い生娘」と見られるのと同じ理由でフェアでない。だから、新しい「お咲さん」の造形には必然性がある。Born This Wayの立ち位置は、独立していて観客に愛されても媚びへつらいは無しということだ。旅芸人を蔑むヘイトを跳ね返し、リベンジを果たす破壊力があった。原作で道中、疲れ渇いた旅の一行が泉を見つけた時、女の後は汚いから、と不浄な彼女らは「清潔な」学生が真っ先に飲むまで待たされる。誰が優先されるべきか。ここでもお咲さんが一刀両断に解決してくれた。
栄吉は、役者を諦め芸人として生きる運命に甘んじているが、一高生と対等に話せる知性を備えている。「土地の人は(誠実な観客として物足りなく)おもしろくない」と悲しむ彼に、二階から心付けを投げる学生の無神経さは残酷だ。地面に落ちたお捻りを栄吉が屈んで拾うとき、彼には学生には見えない「上下」が見えている。永吉の悔しさは棘のひとつだったが、劇場の観客は一座の芸に終始歓声と拍手を送っていた。舞台+観客の再現が、今は遠くにいる彼に声援を届けたようだった。
物語に脇役はあるが、現実の世界に「その他の人々」はいない。見過ごされる人たち、見落とされる出来事は「存在しなかった人」「起こらなかった出来事」では、決してない。
百合子は原作では影が薄い。彼女は一座でひとり血縁がなく「孤児根性」に悩む学生より孤独な境遇だったかもしれない上に、人見知りだ。その百合子のラップは、一番といってよいサプライズだった。まさかの登場から最高潮の盛り上がりまで、舞台と客席を結びつける気持ちの良い強引さがあった。彼女に見合った舞台が派手過ぎるほど派手に用意されていたことに、自分も救われるような気持ちで喝采した人は少なくないと思う。
デフォルメされたショー的演出の中から、リアルが溢れ出たと感じたのが、栄吉と千代子の赤ん坊の四十九日の場。一座は皆、この小さな家族の死を常に気に病んでいた。小説には「私」と一行が別れた後の事は描かれていないが、舞台上で、法要はきちんと行われた。手を合わせた千代子が泣き崩れた瞬間、悲しみが本物になり感情が決壊するきっかけになって、泣けてしまい困った。千代子は早産の後ずっと具合が悪く、皆が遊んでいる時も傍でそっと横になっていたのだった。ショーの振り切れた明るさとの、控えめで遠慮がちな対比だった。
川端康成は、『伊豆の踊り子』の人気への戸惑いや映画化にあたっての思いを書き残している。映画の美化された部分や実際の顛末が正直に語られていて、誠実さに驚く。
「私」と踊り子、旅芸人一座との結びつきは、心の底からの強いものだった。けれどそれは一瞬だった。一座は故郷の大島で学生の訪れを待つ便りを寄こしたが、再会は実現しない。旅をしていても一座の社会は閉ざされていて、旅の間、学生は彼らにとっての「窓」だった。旅は終わり、窓は二度と開くことはなかったのだ。
果たせなかった全てを叶えたような多幸感に満ちたラストでは、あの子も、あの人も、笑っている。夢なのかもしれない。それでも、ひとりひとりの面影を探し見つけるたびに、たまらなく嬉しかった。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■優秀賞■【ばらの騎士】吉野良祐さん

カテゴリー: 2023

オクタヴィアンの言葉は奪い去られて…

「言葉ってすごいね」
元帥夫人との甘美な一夜を思い起こしながら、オクタヴィアンはそう呟く。人妻との快楽に身を投じた年端も行かないこの青年は、明け方、「君と僕」という表現に幾ばくかの哲学的な考察を与えようとする。ひとまわりは年上だろう夫人の前で、何とか背伸びをしようとする青年に対して、夫人は、「君」と「僕」の間にある「と」に全てが込められているのよ、と余裕たっぷりに優しく応えてみせる――
SPAC版《ばらの騎士》は、ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスによるオペラ《ばらの騎士》を原作とし、そのリブレットに最大限のリスペクトを寄せつつも、ところどころに独自のアレンジが加えられる。このシーンも、オペラ版であれば、愉悦的な音楽を伴うオクタヴィアンの自己満足的なモノローグに対して、元帥夫人が「あなたは私の坊や、あなたは私の宝物よ!Du bist mein Bub, du bist mein Schatz!」とけむに巻くのだが、SPAC版では物音ひとつしない静寂に包まれたダイアローグとなり、オクタヴィアンの「言葉ってすごいね」へと収斂する。劇の冒頭部分で示されたこのリブレットの何気ないアレンジこそ、SPAC版《ばらの騎士》のマニフェストに他ならない。
オペラにも造詣が深い宮城氏が、《ばらの騎士》というオペラ史上の金字塔をあえて演劇作品へとアダプテーションすることで、劇中の様々な言葉が“顕わに”なっていった。とりわけ、オペラでは重唱として作曲され、ともすればシュトラウスの多声的で色彩的な音楽に言葉が溺れてしまいかねない1幕後半部および3幕終末部分において、その効果は絶大であった。元帥夫人とゾフィーという、2人の対照的な女性の葛藤が、「言葉でしか生み出せない壮大さ」(宮城氏のプログラムノートによる)へと昇華された。
これだけでもアダプテーションの成果として目覚しいものであるが、さらに驚くべきは、言葉に重きを置くにも関わらず、《ばらの騎士》というオペラの持つ音楽的な遊戯性がむしろ際立っているという点だ。例えば1幕、元帥夫人の執事が発する「ソロリ」「ギー」といったオノマトペは、言葉の音楽性を意識させる原始的な仕掛けとして機能する。2幕、オペラ版においてオックスが皮肉たっぷりにdie Fräuleinと連呼する部分は、「こっこっこっここの人は!」と独特な節回しによってオマージュされる。3幕、オペラでは合唱団が一斉にDer Skandalと歌う部分は、舞台の上手・下手にしつらえられた音楽ブースから発せられる「スキャンダル」という言葉のミニマルミュージック的重なりへと作り変えられる。こうした、いわば“言葉による音楽的遊戯”が全編にわたって様々な形で埋め込まれているのである。
これらの言葉の遊戯が成り立つのは、根本氏の担当する音楽が、オペラ版の音楽を一切使わないという禁欲的なルールのもとで創作されたということも大きい。強固な和声感とライトモティーフの網目によって構築されたシュトラウスの音楽とは対照的に、根本氏は、メトロノームや打楽器、そして人間の声といったプリミティヴな音を組み合せながら、半ば即興的にシーンを彩ってゆく。フライヤーに記された「練馬のシュトラウス」という氏のキャッチコピーは、ある意味、肩透かしというわけだが、それは紛れもなく、根本氏が宮城氏の台本と対峙した結果であろう。宮城氏が、ホフマンスタールの言葉を“顕わに”するプロセスは、シュトラウスの音楽を消し去ることと決して同義ではない。むしろ、その音楽性を、言葉によってアナロジカルに置き換えてゆくクリエイティブな作業であった。根本氏はそのことを理解したうえで、言葉が有する音楽的な磁場を、原初的な音や民族色の強い音楽(例えば地元静岡のノーエ節も登場する)によって巧みに組み上げていったのだ。
オクタヴィアンがふと呟く「言葉ってすごいね」が、全編を通じて通奏低音として機能しているのは、音楽にまで転化しうる言葉のポテンシャルに、劇団一丸となって徹底的なアプローチを試みたことによるだろう。しかし一方で、当のオクタヴィアンが、最も言葉を“奪われた”登場人物であることにも注意したい。1幕、オックスが女装したオクタヴィアンに言い寄るシーン。2幕、銀のばらをオクタヴィアンがゾフィーに献呈するシーン。3幕、元帥夫人とゾフィーの2人を前にオクタヴィアンが逡巡するシーン。オペラでは、これらの場面の重唱に、オクタヴィアンの内面を語る歌詞が様々に与えられているのだが、SPAC版ではそれらが大幅にそぎ落とされているのだ。元帥夫人とゾフィーの言葉が次々と“顕わに”なるのに対して、主人公ともいえるオクタヴィアンの内面がなかなか見えてこないのは不公平だ、といささか不満に思っていたのだが、それは、最後のシーンに対するあまりに見事な伏線であった。
ゾフィーと結ばれたオクタヴィアンが彼女に語る愛の言葉。それは、オクタヴィアン自身からは発せられない。上手・下手に控える十数名の劇団員たち(それまでは舞台上で何らかのキャラクターを演じていた役者たち)が、断片的な愛の言葉をミニマルミュージックのように投げかけてゆく。舞台上のゾフィーとオクタヴィアンは手を繋いで互いを見つめあっているのに、オクタヴィアンが発すべき愛の言葉は、まったく別の多数の身体によって空間化される。冒頭で「言葉ってすごいね」と呟いたオクタヴィアンから、まさにその言葉が奪い去られ、最後には愛の言葉すら自ら語れなくなる。この皮肉な仕掛けが、言葉というものに徹底的に肉薄しようとしたSPAC版《ばらの騎士》の帰結だったのだ。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【ばらの騎士】小長谷建夫さん

カテゴリー: 2023

ドタバタ喜劇の終わりは

―我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在はただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次もそのとおり。丁度崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごと崩れ去るように―
SPACの「ばらの騎士」を観劇しながら、突然中島敦の「悟浄出世」の中で、妖怪の吐いた言葉を思い出したのは、ホーフマンスタールによる本作が、人間にとって、抗いようのない時の流れをテーマに、あるいはテーマの一つにしていたからである。
尤も、芝居の中で時の流れは、もっぱら容色の衰えや人の心の移ろいとして登場してくるから、大河の深い底での妖怪の呟きと、元帥閣下の奥方の独り言とがイコールであるはずはない……はずではないが、人間を含めあらゆる生物が、いやあらゆる事象が、不思議な時の流れの中に存在していることを思えば、一体時とは何なのだと考えざるを得ない。
時を自由に行き来することができたなら、いや自在に扱うことができたなら、できないことは分かり切っているが、誰もが一度くらいは思いを凝らしたことではないだろうか。
いや時を自在に扱えるものがあった。芝居である。暗転によって、幕の開閉によって、あるいは小さな効果音一つによって、時を縮め、時を戻し、時を止めることもできる。
先を急ぎ過ぎたようだ。まずは宮城聰、寺内亜矢子演出の「ばらの騎士」をじっくりと鑑賞することとしよう。
幕開けは元帥奥方の寝室である。冒頭から、不倫の仲にある奥方と貴公子オクタヴィアンとの甘ったるく濃密な閨話が続く。
奥方への恋心に一途に燃えるオクタヴィアン。その若さと危うさ。それを楽しむ奥方の手練れたあしらい。奥方のふと漏らした言葉から、奥方の道ならぬ恋は一度だけではないことさえ覗える。それにしても、二人の恋は少々無防備すぎないか。観客はついついこの罪深い二人のことを心配までさせられるのだ。
不作法にも寝室まで闖入してくる奥方の親戚のオックス男爵に対し、女装してその場を誤魔化すオクタヴィアン。舞台は喜劇の様相を呈して進む。奥方から、オックス男爵の花嫁に結納代わりの銀のバラを手渡す役割を命ぜられたオクタヴィアンは、ファーニナル家に赴き、そこで花嫁のゾフィーと会い、一目で新たな恋に落ちる。その朝、奥方と不滅の愛と誓ったばかりというのに、この無節操ぶりだ。すべては時の流れのなせるわざ…。いや、まさに電光石火。時の介在さえ許せぬ人の心の移ろいの速さと言うべきか。
オックス男爵のファーニナル家における傍若無人ぶりから、第二のテーマと言うべき階級制度の残酷さ、滑稽さ、男女の不条理な関係などが赤裸々にされていく。オックス男爵は、成り上がり貴族の父親の弱味を突き、結納金と娘を手に入れようとする。そのあまりの傲慢、非礼ぶりに、娘のゾフィーは絶望してオクタヴィアンに助けを求める。
オクタヴィアンと男爵の決闘の後、場面は変わり、女装したオクタヴィアンが美人局まがいに男爵の下劣な正体を暴き、婚約は見事破談となる。最後に奥方が登場。恋人の座を娘に譲り若い二人は結ばれ大団円となる。
さて、このホーフマンスタールのよるオペラの台本は、作曲家リヒャルト・シュトラウスとの密なる協議によって出来上がったものという。確かに多くの登場者による会話の輻輳や、何度も繰り返されるセリフなどは、歌声や楽器の効果、二重唱や三重唱、リフレインの技法等の存在が前提になっているように思える。宮城監督はしかし、その音楽によって埋もれてしまった台本の会話の面白さや言葉が生み出す深みを引き出そうと、シュトラウスの音楽なしの芝居としたという。シュトラウスがなくとも、音楽は宮城演劇にとって欠くべからざるものであるから、観劇者は練馬のシュトラウスこと根本卓也の本芝居独自の音楽や歌に身を委ねることになる。
ではシュトラウスなきこの芝居の醍醐味とはなにか。
過剰なまで多種多様な人物が登場するが、一人として「正しい」ような人物は存在しない。
元帥夫人は一見、時に流される悲劇の人物のように見えるが、若き恋人との別れは、繰り返す火遊びの代償に過ぎない。オクタヴィアンこそは、元帥不在の中、人妻といい仲になって、なんの罪悪感も抱かない若造だ。オックス男爵、ファーニナル、その他の人物も、自分自身のことしか考えないエゴイスト達。
ゾフィーだってピュアではあるが、「私は夫の名誉も妻の立場も汚さないわ」と誓ったすぐ後、現実の婿の態度に豹変するという、我がまま娘。勿論彼女に同情しない観劇者は誰一人としていないが。
そんな癖の強い人物達をSPACの癖のある俳優たちがよりどぎつく演ずるのだから、舞台は当然ながら猥雑となる。素直に笑うには少々ゴテゴテしすぎかなと思っていると、最後はそれらが霧の消えるように晴れ、何か透明な、無常観のようなものに包まれていく。脚本の狙い、演出の妙であり力であろう。
オクタヴィアン演ずる山本実幸は、年上の恋人に坊やと呼ばれるような若さを、そしてそれゆえの未熟さ、危うさを全身から発散させて、観客をはらはらさせてくれた。
時の流れが自らを傷つけないように注意していたにも拘わらず、最後に寂寥感に捉われてしまう奥方。本多麻紀の奥方は舞台の思想そのものを体現したかのような存在感があった。
ゾフィー役の宮城嶋遥加は若くておきゃんで、わがままで、信仰深くて、無邪気に飛びはねる娘を演じて、一瞬にして舞台の中心に躍り出た。ゾフィーの純粋さ、それを演じた宮城嶋の存在があったから、この芝居が猥雑さに崩れ落ちて行く間際に浮上できたのは間違いない。
脇役含めこうした俳優たちの好演を支えたのは、やはり音楽だろう。舞台の脇で奏でられる音楽が、舞台で歌われた登場人物毎のテーマが、人物と人物、場面と場面を結び付け、あるいは切り離してくれた。
登場人物は誰もが欲望に駆られるエゴイスト達だが、欲望は人間の生命力と同じ謂いである。この芝居は階級社会で生き抜くための人間の卑俗と崇高、混濁と純粋、喜びと悲しみ、それらのやや危うげなバランスを鮮やかに見せてくれた。猥雑なドタバタこそが、人間のこころのはかなさ、人生の無常を際立たせたのだ。
さて、舞台には幕が引かれたが、物語が終わったわけではない。若い二人の行く末はどうなる。いかにも危なっかしい。元帥の奥方だって、これで火遊びを終えるとは思えない。オックス男爵が察した不倫の後始末だって不穏だ。
すべては次の物語に引き継がれていく。それらを悉く音もなく時が流していくのだ。我ら観劇者だって同様その流れの中にいる。あたかも砂時計のように流れ落ちる時の中に。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【お艶の恋】寺尾眞紀さん

カテゴリー: 2023

殺されたのは誰か

彼女たちは美しい怪物のようだ。谷崎潤一郎の描く女性は、春琴にしてもナオミにしても、男性の視線によって磨かれていく。完成した「作品」は、とても人工的だ。並外れた美と悪魔的な支配力、そんな鋳型に収まる人間の女は、本当にいるのだろうか。ファム・ファタル、と呼ばれる女性たちは、どこからか湧いてくる超自然の力に溢れて自由奔放だ。彼女らは、女をコントロールできないことに絶望した男に殺される。それは越境してしまった女性への罰だ。または立場を奪われた男の方がコントロールを放棄して、その存在を自ら失くす。ファム・ファタルに選べるのは、怪物になるか、殺されるか、だ。石神夏希氏の演出は、その身動きの取れない二者択一からお艶を解放した。
熱帯の河に浮かぶ小舟、生い茂る巨大な南国の植物。聞こえてくるのは甲高い鳥の鳴き声。原作を読んだ者には全く予想外の舞台装置で、まず先入観が粉微塵にされる。意味を持たないはずの鸚鵡の鳴き声は、少しづつ人間の発声に変わってゆき、雪の夜の江戸を語り始める。上演前の解説で、「物語の登場人物たちの魂が南米に流れ付き、彼の地の役者たちに上演される」という設定を演出家から聞いた。これを聞かなければ、冒頭かなり混乱していたとは思うが、何も知らずに思い切り混乱を楽しんでみたかったという思いも、少々残った。
小舟には役者たちが乗っている。出番が来るまで居眠りしている者もある。彼らは単に本日の芝居というルーティンをこなしているのであって、物語そのものには無関心なのかもしれない。この劇中劇の「他人事」感と、物語の展開の過剰な激しさが対照的だ。鸚鵡返しという言葉があるくらいだから、達者な語りの鸚鵡の「座長」も、果たしてどれだけこの悲劇を理解しているのか。役者たちも油断すると魔法が解けて鳥の姿に戻ってしまい、飛んでいってしまいそうだ。これから舞台で起こることを丸呑みで信じてはいけない、と小声で耳打ちされたような気がした。
しかも劇が始まるや否や、クライマックスのはずの「お艶殺し」はあっさり果たされてしまう。設定に理解が追いつかないまま、一番の見せ場は終わってしまった。
この辺りで、この舞台の楽しみ方に気づき初める。倒叙法とは少し違う。なぜなら「お艶殺しの場」は、これ見よがしに芝居がかって様式的なものだった。これは序の口ですよ、というメッセージである。なぜ劇中劇という複雑な構成なのか。現実と夢や妄想、登場人物たちは場面ごとにどの階層で生きているのか、それをパズルを解くように楽しめばよいのだろう。
原作の衣装の描写は、「緋鹿子の長襦袢」「紬のやたら縞」「黒繻子の襟」など、生地や色まで具体的で目に浮かぶようだ。眼前の舞台では、ラテン風の派手なフリルやマゼンタのレースが揺れている。漢字が音として発声され一度空中で響いてから、全く違った色と形になって目に映り脳に届く、という過程が繰り返される。聞こえている言葉と見ているものが違う、けれど起きている事象は本質的に同じなので、頭の中で辻褄を合わせるのが忙しい。アクロバティックな言葉の扱い方で、不思議な体験だ。
「座敷」「障子」「行燈」といった言葉の風情も、マラカスのリズムにのって歪に小舟の上に積まれていく。この「小舟」のみは、清次の営む船宿の小舟が、この地まで流れ着いたのだろう。お艶との行く末の転機となるその日に新助が乗りこんだ小舟は、不安定な運命の象徴だ。彼らがさらに危なっかしく船縁に立ってよろめく時、どうか落ちないように、と観客も思わず手を握りしめてしまう。
2022年に石神氏演出の『弱法師』を観た。生と死の結界としての場所、身体的な危うい不安定さ、言葉の描写を裏切る見た目、ループする時間が、非常に魅力的だった。その魅力と、ところどころで再会できて嬉しい。
一番緊迫するはずの「殺しの場」では、役者たちは楽しげに踊り出す。肝心のお艶は、ここぞという場面ほど人ごとのようにくつろいでいる風情だ。彼女は今、役者に憑依したお艶自身なのか、お艶役を出番待ちの南米の役者なのか、劇中劇の役を休憩中の俳優なのか、表情を読み取ろうとするけれど、うかがい知れない。「清純な乙女」の次の段階が、なぜ一足飛びに「汚れた娼婦」や「人殺しの毒婦」なのだろう。(でなければ、「忍耐強く献身的な母親」だが、「母」は性別を失っている)お艶は、妖婦やら毒婦やらの型から抜け出して、鬢付け油で固めた日本髪ときつく締めた帯を脱ぎ捨て、くつろいでいるのではないか。一方的に「愛される」か「汚される」しかなくて、どちらも嫌なら、後は役を降りてしまうしかない。江戸時代の芸者を生きるお艶が、気軽にシャワーで汗を流す開放感と爽快感は格別だった。
新助がお艶の美貌に劣らぬ美青年である、ということは原作でも繰り返し強調される。舞台上の新助も、お艶と二人、本当に「芝居のよう」だったが、彼を女性が演じる意味は表面的なものだけではないだろう。恋人たちの場は、物語において重要である。様式的な美しさを保ちながらも、凝視するのが憚られるような生々しさがあり、直接的な熱が感じられて、どぎまぎしてしまった。この高温はなんだろう。裸の俳優を見た時もそんな感情は湧かなかった。もし男女の俳優が演じていたら、微妙な距離感が生じたり、男女の強さの優劣の刷り込みのようなものが、その温度を下げてしまったかもしれない。ジェンダー問題をマニュアルのように芸術に当てはめることには、全く賛成しない。けれど、女性の演出家と女性の俳優が作り出す「きちんとわかった上での」高い温度というものが確かにあるのだな、とあらためて思った。
新助は、ひとり疑心暗鬼で不安げで、常に迷っている。悪役とはいえ、清助、三太、徳兵衛ら他の男性陣に迷いはない。恋人に求めるだけでなく自らの貞操を大切と考え、重要な局面ではパートナーの決断に従う新助は「封建的社会に生きる女性」にありがちな義務を担わされている。従来あるべき立ち位置が逆転したからこそ、『お艶殺し』は扇情的でドラマチックな「芝居じみた物語」となって、人々は熱狂して受け入れたのだろう。劇中劇で殺されたお艶は、芝居が終わると笑顔で素に戻る。彼女は生き延びたのだ。花形役者のはずの新助は、途中退場したあと、代役に取って代わられたまま消えてしまう。本当に殺されたのは新助だったのではないか。新助を女性が演じたことで、「女性性を超越した罰により舞台で殺された女」と「存在を消された男を演じた女」、二人の女性が殺されたことになる。
マジック・リアリズムに影響されたという石神氏の言葉を観劇後に聞いて、とても納得がいった。ガルシア・マルケスだからラテン・アメリカという説明が強引なこじつけに思えなかったのは、冒頭の殺しの場で『予告された殺人の……』というタイトルが自然と頭に浮かんでしまったからだ。表面的な設定の小道具ではなく、本質的にマジック・リアリズムの舞台だったと思う。
やはり『お艶の恋』より『お艶殺し』がふさわしい。ひといきれを感じられるような小さな劇場でも、ぜひ観てみたかった。

2024年9月4日

ふじのくに⇄せかい演劇祭2023 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 2023

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2023の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数18作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選6作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
山田淳也さん(『アインシュタインの夢』)

■優秀賞■
河口雀零さん【虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界】(『天守物語』)
後藤 展維さん【戯曲『ハムレット』とは何か】(『ハムレット(どうしても!)』)

■入選■
青木孝介さん(『ハムレット(どうしても!)』)
海沼知里さん(『XXLレオタードとアナスイの手鏡』)
酒巻鼓さん【複数の生きづらさの絡み方】(『XXLレオタードとアナスイの手鏡』)
澤井亨さん(『パンソリ群唱~済州島 神の歌』)
夏越象栄さん(『天守物語』)
山田淳也さん(『ハムレット(どうしても!)』)

■SPAC文芸部・横山義志の選評■
選評

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2023 作品一覧
アインシュタインの夢』(演出:孟京輝[モン・ジンフイ] 製作:ノース・パーク・シアター、孟京辉戏剧工作室[モン・シアター・スタジオ])
ハムレット(どうしても!)』(テキスト:ウィリアム・シェイクスピアに基づく  翻訳・演出:オリヴィエ・ピィ 製作:アヴィニョン演劇祭)
XXLレオタードとアナスイの手鏡』(演出:チョン・インチョル 作:パク・チャンギュ 製作:シアター・カンパニー・ドルパグ)
天守物語』(演出:宮城聰 作:泉鏡花 音楽:棚川寛子 製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター)
パンソリ群唱~済州島 神の歌』(演出・作・音楽監督:パク・インへ ドラマトゥルク:イ・ギョンファ 製作:パンソリ・アジト・ノレボックス)
Dancing Grandmothers~グランマを踊る~』(振付・演出:アン・ウンミ 製作:アン・ウンミ舞踊団、斗山アートセンター 共同製作:パリサマーフェスティバル)

ふじのくに⇄せかい演劇祭2023■選評■SPAC文芸部 横山義志

カテゴリー: 2023

ふじのくに⇄せかい演劇祭2023劇評コンクールには計18作品の応募がありました。内訳は『天守物語』7、『ハムレット(どうしても!)』4、『アインシュタインの夢』3、『XXLレオタードとアナスイの手鏡』3、『パンソリ群唱~済州島 神の歌』1でした。だいたいご覧になった方の数に比例していて、どの作品もきちんと評価していただけたのをうれしく思いました。

ちなみに私は、劇評を以下のような基準で評価しています。
1)(粗筋ではなく)上演がきちんと記述されているか
2)明確な視点が提示されているか
3)その劇評を読まなければ気づかなかったような発見があるか
最優秀賞や優秀賞に選ばれた作品は、自分が見たはずの舞台でも、新たな視点から、驚きをもって思い出させてくれるものでした。

今回、最優秀賞に選ばれた山田淳也さんが劇評の対象とした「アインシュタインの夢」は、今回の演劇祭のなかでも、捉えどころを見つけるのが一番難しい作品だったのではと思います(中国の作品は意図をあまりはっきり表明しない傾向があります)。この劇評は、舞台から「不可能に思える共時性をもたらすもの、私たちが同じ時と空間を共有できる根拠は、「愛」(精神の交流)にある」というメッセージを説得的に抽出したうえで、「演技や上演の根拠となる発見を、演劇=Theatreではない演劇を蓄積してきたアジアの演劇の中から発掘し、それを改めて蓄積していくことで新たな演劇圏をつくる」というより高次の目的から、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」全体のなかでこの舞台を位置づけてくれました。

優秀賞に選ばれた河口雀零さんの【虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界】は『天守物語』を取り上げています。『天守物語』は作品として「わかりにくい」ところはあまりないものの、新鮮な視点を見出すのはそれほど容易ではありません。この劇評では、一見全く異なる『人形の家』と比較して、「ある秩序内で暮らしていた者が、その秩序のほころびや理不尽さに気づくことで外部に開かれる」という共通項を見出しています。そして、「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」として現れて主人公達を救う桃六が「現在の思考枠組みでは到底たどり着けない〈革命〉」を可能にする存在として描かれ、それが鯉のぼりを模した衣裳と竜の「獅子頭」という舞台のヴィジュアルとも結びつけて論じられています。

もう一つの優秀賞後藤展維さんの「戯曲『ハムレット』とは何か」は、『ハムレット(どうしても!)』の一場面で、紹介された哲学者たちの解釈が『ハムレット』の最古の版を参照することで全て灰燼に帰するというところに焦点を当てたうえで、「私たち観客が舞台を見る側ではなく、舞台から見られる側に」なっていくという上演の構造から、私たちの「実社会こそがフィクションであり、[…]優先して批評されなければならない客体」であるという気づきにたどりつきます。

いずれも、具体的な上演を出発点として、非常にスリリングな解釈を提示していて、舞台作品を新たな角度から見つめなおすきっかけをいただきました。演劇祭や劇場のシーズンプログラム全体を視野に入れて論じてくださるような方がいらしたのも、とてもありがたかったです。

まだまだ先の見えない状況のなか、劇場に足を運び、時間をかけて観劇体験に思いをめぐらせ、共有してくださったみなさんに、改めて御礼申し上げます。またみなさんの劇評を拝読できるのを楽しみにしております!

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■最優秀賞■【アインシュタインの夢】山田淳也さん

カテゴリー: 2023

この作品は共時性と共時不可能性という普通両立しないもの同士を舞台という特殊な空間において、それらを拮抗させつつ共存させた。そしてその拮抗の末に、「愛」が時間という概念がなくなってもなお私達をつなぐ、というメッセージが浮かび上がる。
共時性とは、私達が「いまここ」を共有している感覚のことだが、静岡芸術劇場のライブ性を喚起する密度のある構造が、この劇の激しい身体表現と相性がとても良く、強く「いまここ」を共有している感覚になった。フィジカルシアターによる、エンターテイメント的な共時性も強調されているが、劇の内容については明らかに共時的なことの不可能性を描いていた。「私たちは同じ時間を生きることはできない。だが、私たちはこんなにも同じ時間を感じている。どうしたらいいだろう?」と問うていく劇だったのだ。それはいくつかの特徴から読み解くことができる。
舞台上で様々な言語(世界の複数性を意識させる)を使うこと、また中国語以外の言葉には字幕がつかなかったことで観客はその言葉を想像するしかなくなっていたことや、モチーフにアインシュタインを扱い、彼の記憶の断片をカフカの小説やいくつかのエピソードをコラージュし、アインシュタインが相対性理論を、彼の時間の流れに逆らう愛を叶えるための、もう今は会えない人への「手紙」だった、という解釈を与えていたことで私達がもう、一つの世界像や、共通の時間を体験できないことを表している。(一方このエピソードは同じ時間に生きることのできない人たちが共時性ではないやり方で出会える可能性を「相対性理論=手紙」として私達にも宛てられていることを示している)
また、実際の俳優の旅の荷物を最後に提示することで示していること、つまり日本に旅に来た中国の俳優たち(観客にとってわかりえない、共時不可能に思われる人々)がどのような時間を生きているのか想像させる表現は特筆すべきだ。それらを通して訴えかけてくるのは、他者の生命、生活、声、を想像することの重要性だった。それは、共時性と共時不可能性の矛盾に対する問いに答える行為でもあった。つまり、不可能に思える共時性をもたらすもの、私たちが同じ時と空間を共有できる根拠は、「愛」(精神の交流)にあると。
あらゆるものがデジタル時空間において流通し、遠くの国のことを一瞬で理解できた気になれる今、わざわざ中国から日本に来てこれだけ体を酷使する理由は、演劇という同時性と同時不可能性を両立させるものが「戦争」(それが顕在的なものであれ潜在的なものであれ)を止める可能性を信じているということなのではないか?まざまざと目の前に現れ、私たちは分かり合えないし分かり合える 分かち合えないし、わかちあえる。想像せよ、と。

身体表現に関してはピナバウシュの影響を鑑みて、ピナとの比較で考えてみると、手放しに良かったと言えるものではない。身振りのキレはあるが、演技に対する意識の繊細さがあまり感じられなかった。ピナ・バウシュにとっても動きはダイナミックさを観客にアピールするためだけにあるのではなく、動きの中で増幅されるものがダンサーの身体に満たされて、手の届かないところに手を伸ばすような感覚が重要になる。それがどうしても、今回の劇は「フィジカルシアター」という文脈を輸入しただけのように見えてしまった。俳優たちの身体の作動の仕方には深い裏付けや根拠になるものが感じられず、断絶されたようにも感じる。その後に私が観た、オリヴィエ・ピィ演出の「ハムレット(どうしても!)」との比較で考えるとわかりやすい。「ハムレット」の俳優たちの演技は、あらゆる西洋演劇の演出家の演技や上演に対するアイデアを縦横無尽に使い尽くしていた。スタニスラフスキー、ブレヒト、アルトーなど、これらの彼らの中に根拠として存在する過去の発見たちが今現在の彼らの演技をとてつもなく厚みのあるものにしていた。私はさっき記述したような演劇をする上での演技や上演の根拠となる発見を、演劇=Theatreではない演劇を蓄積してきたアジアの演劇の中から発掘し、それを改めて蓄積していくことで新たな演劇圏をつくることが重要だと思う。
ただ、先に記述したラストシーンの旅行カバンを見せていくパフォーマンスには強い裏打ちがあり、そこに可能性を感じる。この表現を裏打ちするもの、それはふじのくにせかい演劇祭の理念だ。多様な世界があり、そこには多様な文化があり、多様な人々がいる。それを肉体を通した体験として知っていくこと。そして認めていくこと。その重要性をふじのくに⇄せかい演劇祭は訴えている。それは鈴木忠志や宮城聰が演劇自体に込めてきた願いでもあるだろう。私はこの表現に、この演劇祭も望んだであろう、アジアだけではなく世界の演劇に通底しうる根拠を見出すことができた。それはこの演劇の大きな成果かもしれない。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【天守物語】河口雀零さん

カテゴリー: 2023

虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界

天守閣内に暮らす妖怪、富姫のもとを、同じく妖怪で妹分である亀姫が訪ねるところから物語ははじまる。富姫や亀姫に対して設定上「妖怪」という言葉が使われてはいるが、その言葉がもつおどろおどろしさとは裏腹に、舞台上の彼女たちが放つのは華やかな雰囲気である。鯉のぼりを象った衣装に身を包み、流麗な振り付けで舞い踊る。

彼女らが暮らす天守閣に足を踏み入れることになる人間が、図書之助である。彼は城主のお気に入りの鷹を逃がしてしまった罪を償うために、妖怪の呪いにより入ったら最後、二度と生きて帰ることができないという噂がある天守閣へとおもむく。つまり図書之助は、鷹を逃がした罰として死罪となるか、それとも天守閣に行って妖怪に呪われて死ぬか、どちらかの究極の選択を迫られたのであった。どうせ死ぬならこの世のものではないものを一目見てから、という思いが図書之助にはあったのだろう。彼はおそるおそる、富姫たちのいる天守閣に足を踏み入れる。

人間が妖怪に呪われてしまって終わり、という筋書きではもちろんない。妖怪という人ならざるものに触れた図書之助は、人でもない鷹一匹を逃がした程度の罪で殺されるという、武士特有の縦社会の掟に疑問を抱く。そうして図書之助は次第に、人の世を離れ、妖怪たちと同じ世界に引き込まれていく。それと同時に、富姫の妖艶さにも惹かれていく。

この物語の結末に、少なくない人が拍子抜けしてしまうかもしれない。図書之助と富姫は、視覚を失ってしまうという悲劇的な結末を迎えそうになる。しかし終幕の直前、桃六という超越的な存在――富姫や亀姫たち妖怪という、人間にとってみればすでに超越的な存在をもってしても、さらに上に位置するような――が突如として現れ、二人は視覚を取り戻し、輝かしい未来が示唆される。つまり、「一件落着」のようなかたちで終わってしまうのである。そこからのもうひとひねりがあるかもと期待していたのだが、その期待は見事に裏切られてしまった。よくある言葉をそのまま使えば、「デウス・エクス・マキナ」として批判されかねない演出であろう(泉鏡花による原作がその通りだから、と言ってしまえばそれまでであるが)。

しかしそうやって一蹴してしまうのでは芸がないし何より面白くないので、ここに少し考察を加えることにしたい。そこで、比較対象としてSPACでの前回の公演『人形の家』をあげてみたい。

『人形の家』では、亭主=父親=男性という「大黒柱」を中心とした「家庭」という空間内で暮らしていたノーラが、女性の権利が制限されていたことに気づき、家庭の外へと出ていく。そして今回の『天守物語』では、武士社会特有の封建制度の内側で暮らしていた図書之助が、富姫たち妖怪という「人ならざるもの」との出会いを通して縦社会の掟に疑問を抱き、「ここではないどこか」へと開かれていく。以上のように、ある秩序内で暮らしていた者が、その秩序のほころびや理不尽さに気づくことで外部に開かれるという点で、二つの作品は共通している。

二つのちがいをあげるとするならば、そこに「現実世界」が描かれているかどうか、ということだろうか。もちろん、「フィクション作品なのだから、私たちが暮らす現実世界とのつながりはない」と言ってしまうことも可能である。しかし『人形の家』は明らかに現実世界のジェンダー観を基にして作られており、最終シーンでノーラが家庭を出ていくとき、観客は少なからず舞台の仮想世界と、自分の生きる現実世界とのつながりを意識することだろう。だが『天守物語』は、神的・霊的な「外部」と接することで幻想世界に引き込まれた図書之助が、現実世界に引き戻されることなく物語が終了している。妖怪という非科学的なものが住むという意味で、虚構世界のまま終了すると言い換えてよいだろう。

しかしこれを、現実の社会問題の排除として受け止めてはいけない。というのも、現実世界から断絶されたものとして物語を描くことでこそ、フィクションの世界と現実世界との相互浸透(小玉, 2021)が起こることがあるのではないかと考えられるからである。つまり『天守物語』は、すでに成長を終えて閉塞感が漂う現代日本社会における劇的な変化、〈革命〉への端緒として捉えることができるのではないか、と。

ここで、本作が「デウス・エクス・マキナ」で終わりを迎える――むしろ、終わりを迎えざるを得ない――ことの意味も、なんとなく見えてくる。現在の思考枠組みでは到底たどり着けない〈革命〉を志向するには、私たちの想像力を大きく超え出る何かを頼るしかない(大澤, 2016)。その「何か」が本作では、桃六という超越的な存在であった。

そう考えれば、本作の衣装・舞台美術に取り入れられた特徴的な意匠も意味を持ってくる。富姫とその周りで舞い踊っていた者たちの衣装には、鯉のぼりを模したデザインが盛り込まれている。そして天守閣に供えられた「獅子頭」は、原作に倣ってそう呼ばれてはいるが、そのデザインは明らかに東洋的な竜を模している。図書之助が武士社会の掟から解放されることは、滝を登った鯉が竜に変化するという非現実的な伝説ほど大きなインパクトを持つものであったということだろう。

現代においてなにがしかの変化が必要であるということは誰もが意識しているが、しかし具体的にその変化がどのようなものなのかは、誰も思い描くことができない。それを現実にするには、鯉が竜に化わってしまうような、生物的種として全く異なるものに変容するほどの、私たちの想像力を大きく超え出るほどの、〈革命〉が必要なのだ。〈革命〉の具体的なかたちは示されなくとも、それが起こる余地だけは残されている。そうして私たちは結局、「そうなるかもしれない」未来としての可能世界を求めて、次なるフィクション作品へと向かうことになる。

 

〈参考文献〉

大澤真幸(2016)『可能なる革命』太田出版。
小玉重夫(2021)『可能世界としての学校』広瀬裕子編著『カリキュラム・学校・統治の理論:ポストグローバル化時代の教育の枠組み』世織書房。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【ハムレット(どうしても!】後藤 展維さん

カテゴリー: 2023

戯曲『ハムレット』とは何か

テクストに解説を加える注釈は作品の研究において重要な役割を果たすが、『ハムレット(どうしても!)』において、こうした注釈という学問の方法はそのまま、鑑賞に堪え得るナラティブとして落とし込まれている。これは、戯曲の台詞を編んだオリヴィエ・ピィが、あくまで“翻案”ではなく“翻訳”としてクレジットされている姿勢からも明らかである。

概して「注釈劇」という即席の造語が発想できるほど、劇中で繰り広げられる様々な議論や先行思想の引用は、本作のメタフィクション要素における中核を成す。特に、作品の貌とも言える有名な某台詞に焦点を当てた場合、各言語による翻訳の差異が、舞台上では見過ごすことのできない深刻な誤謬となる。なぜならば、『ハムレット』に焦点を置いた古今あらゆる主張の論拠は、常に作品のテクストへと最大限依拠しなければならず、したがって、肝心のテクストそのものには、絶対的な正確性が必要とされるためである。

しかしながら、本作を通じて――むしろ皮肉とユーモアを積極的に交えながら痛烈に突き付けられている現実は、私たちが論じる都度に典拠としなければならない『ハムレット』のテクスト自体が、その正確性に根本的な危うさを孕んでいるという状況である。たとえば、かつて最古と見做されていた四折版(Q1)よりも古い版が発見されたと明かす序盤の大暴露は、恐らく作品全体を構成する大きな問題意識に対して、その一翼を担っている。

劇中に繰り返し引用されたヴィトゲンシュタイン(実証主義)やドイツ現象学など、これまで『ハムレット』に典拠を示してきた哲学分野や関連する研究の多くは、こうした実資料の更新を前にほぼ無力である。つまり、四折版以降の本文解釈に寄与した諸々の主義や思想及び信条は、原書テクストの絶対的な正確性が瓦解した瞬間からその正当性を等しく剝奪され、互いに優劣無く均される。舞台上で繰り広げられる注釈行為全般が、明確な皮肉を込めた喜劇やユーモアの文脈で演じられている理由には、以上の作為が垣間見える。言語の不完全性がもたらす脅威とは、それほどまでに重い。

それでは、凡そ数百年に渡り繰り返し上演されてきたにもかかわらず、未だ誰一人として物語や台詞の真相を正確に知り得ていない戯曲『ハムレット』とは、いったい“何”なのか。この漠然とした問いに対し、本作はさらに深い層に位置するメタフィクション要素を用いることによって回答している。

――私たち観客が舞台を見る側ではなく、舞台から見られる側になることで、虚構と現実の位置が逆転する。一聞する限りでは修辞法(レトリック)のようにも受け取れるこの提案は、舞台の冒頭、演劇の担う社会的役割を問い直す試みの一環として役者の口から告げられたのち、物語の終盤、王妃やクローディアスの死に際において実践される。

今作が『メタ・ハムレット』として最も特異的な色彩を放つ点は、やはり、虚構の存在であるはずの登場人物そのものが自我〈エゴ〉を持ち、自らの言葉によって独白をする深遠な展開にあると思う。なかでも極めて印象に焼き付くのは、王妃ガートルードの言葉である。

彼女の死に際の、半ば訴えに近い独白が示唆している通り、『ハムレット』における王妃とは、初めからガートルード以外の何者でもなかった。先王が死に、クローディアスと再婚し、ハムレットの策略を意図せず被り命を落とす。長い年月を経てもなお、彼女はそうした在り方を何ひとつ変えていない。

むしろ変化しているのは、『ハムレット』を鑑賞し、批評し、論じる人間の属していた価値観や主義思想、信条にほかならず、それらは常に時代の当事者である。すなわち、今日までに『ハムレット』が“何”であるのかを規定していたのは、そもそも私たち観客側だったという事実に、ここで改めて気づかされる。

そして、舞台から見られる観客とは、詰まるところこの状態を意味する。ガートルードという虚構の存在が自我を持ち、戯曲の台詞でも役者の即興でもない第三の言葉を語り出すことで、批評対象が舞台上から観客席へと移行し、虚構と現実の立場が逆転する。初演当時から同一存在であるはずの彼女にとっては、上演の度に異なる役割や人格をガートルードに求め続けて来た私たち鑑賞者(読み手)の存在やそれらを形成する実社会こそがフィクションであり、いずれも優先して批評されなければならない客体である。また、以上の事柄は、その他のあらゆる登場人物たちに関しても例外ではない。

戯曲『ハムレット』のテクストには、何故これほどまでに多くの注釈が過剰なほど付随しているのか。それは、戯曲自体の不可解さや未成熟さというよりも、戯曲が上演されて来た社会背景の様相が、夥しく存在していたことに根深い事由があると言える。登場人物たちの台詞や言動に或る特定の動機を与えている張本人は、いかなる時代であっても、そのときどきに観客が背後で抱えていた社会的・思想主義的実状そのものである。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【ハムレット(どうしても!】青木孝介さん

カテゴリー: 2023

難しい芝居だった。舞台の上の人々は、どうやら『ハムレット』を演じているらしい。しかし、そこには『ハムレット』だけがあるのではない。時折『ハムレット』とは異なる声が聞こえてくる。それは『ハムレット』をかつて観劇し、あるいは読み、『ハムレット』の問いを引き受けた人々の声やその言葉である。

いくつかの小道具が置かれた舞台の上には4人と1人。『ハムレット』の筋をなぞり、多くの登場人物たちがあらわれてくる。だが、次第に『ハムレット』とは異なる声が聞こえてくる。『ハムレット』というテキストの外側からその声はやってきた。それは哲学者たちの声であった。

ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フロイト、デリダ・・・。彼らの名前も言葉も、いかめしい。だけれども、彼らの言葉に注意深く耳を傾けてみる。観客である私も、彼ら哲学者たちも、同じ舞台を見ている。『ハムレット』に彼らの言葉が重なる。これらの声は、私を困惑させた。私は今、芝居を見ているのか。それとも、『ハムレット』についての講義を聴いているのか。重なり合う声の間で、私もまた思考していた。

『ハムレット』には決まったストーリーがある。誰もが知る著名なセリフがある。それまで一度も『ハムレット』という芝居を見たり、テキストを読んだりしたことのない私でも『ハムレット』は知っている。否、知っているつもりになることができていたのだ。「まぁ、ハムレットってこんな話でしょう」。

しかし、舞台からやってくる、ときに騒々しい言葉たちが『ハムレット』という覆いを少しづつ引きはがしてゆく。私は『ハムレット』を見ていたつもりだったのだが、どうやら違ったらしい。ふと壇上の上のポローニアスと目が合う。ここでようやく思い知る。私は芝居を見ているが、私も見られている。誰からだろう。ハムレットに、ポローニアスに、オフィーリアに。「ハムレットって、何なのだ」。

様々な声、言葉たちの間で、ハムレットたちもまた右往左往しているようだった。彼ら・彼女らは、常に世界に向かって問いを発し続けてきた。同様に、彼ら・彼女らもまた、問われ、解釈され、理解されてきた。積み重ねられた言葉の上で、ハムレット達もまた、呼びかけられていた。一体お前たちは何なのか。お前たちは何をしているのか。

ついには観客の声も巻き込んでいく舞台から、登場人物たちはやがて観客へ自らを語りだす。ハムレットたちの声が聞こえてくる。自らを語りだし、観客へと問い掛ける彼らの言葉は、薄闇の中照らされた劇場に満ちてゆく。呼びかけられたものは応答しなければならない。ハムレットたちは応答していたのだ。自らに差し向けられた言葉に向かって、声を上げていたのだ。その声を、言葉を次に受け取るのは誰か。それは彼ら・彼女らの前に座っている私(たち)なのだ。

呼びかけに答えること。これは「倫理」でもあり、「責任」でもある。ハムレットは、父王の呼びかけに答えようとして、苦悩した。かたき討ちは、ハムレットにとって為すべき倫理であり、果たすべき責任だった。それらは思いくびきとしてハムレットを引きずりまわしたのだった。いま、そのハムレットが観客に問い掛ける。応答をせまっている。しかし、観客たる私は、まだ答える声も、言葉も持っていない。私は応答できない。私にできるのは、ただ舞台を見ること、彼ら・彼女らの声に根気強く耳を傾けることだけだった。それが応答であり、倫理であり、責任なのだ。どうしても。

この芝居は、あまたの声や言葉の中に私(たち)を放り込む。私(たち)は問われ続け、呼びかけられ、応答を求められるのだ。これは遠い昔の、海の向こうの国のお話、ではない。声は、言葉は、今この時、観客の目の前にある。この芝居を前にして、私(たち)はただ舞台を眺める第三者ではない。『ハムレット』を巡る多くの言葉やハムレットたちから呼びかけられる。呼びかけとは、「私」が「あなた」にするものだ。観客は、舞台の上から「あなたは」と呼びかけられる。それに対する答えは、「私は」と始まるだろう。この芝居を見て、この芝居について何かを言おうとするならば、「私は」と語りだすよりほかはない。

『ハムレット』をシェイクスピアが作り出したのは17世紀、いわゆる「近代」の幕開けである。その近代において生まれた「主観」、「自我」、「主体」といった言葉については、現代にいたるまで盛んに論議されてきた。されてきたが故に、皆それを分かった気になってしまった。ハムレットたちの声は、呼びかけるという仕方で、私を「私」へと引き戻してゆく。それは、宙に浮いた何者かではなく、今ここにいる、呼びかけられる者としての「私」なのである。

やがて声は止み、言葉は消えて、役者は舞台から去った。観客は劇場を後にする。それでも、劇場の幕は下りていない。幕は最初からなかったのだ。問いは私の中に残り続ける。

難しい芝居だった。