劇評講座

2010年9月28日

『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

カテゴリー: 若き俳優への手紙

■卒業者劇評
〈間〉に立ち上がる演劇  「若き俳優への手紙」評

柳生正名

演劇とは観客と俳優の間で起こるもの―鈴木忠志の言だったろうか。オリヴィエ・ピィ作「若き俳優への手紙」が平田オリザの日本語訳、宮城聰の新演出を得て上演された。現代演劇の尖端に立つ三人の力が収斂した、その舞台上で露わになったこと、それは〈間〉で起こる出来事としての演劇そのものだった。

この戯曲(テクスト)で、主人公の「詩人」は、冒頭から幕切れまで「悲劇の精」の姿をまとい続ける。自らが「演劇」そのものの人格化され、受肉した存在であることを示すように。

劇場内には能舞台が設けられ、その上に布で覆われた巨大な立方体が据えられた。もっとも、詩人が常に身を置くのは能舞台上でなく、そこから客席へと斜交(はすか)いに渡された橋掛りの上。この「観客と俳優の〈間〉で起こるもの」としての演劇がそのまま実体化された空間で、詩人が問題にし続けるのは、演劇の依って立つ足場としてのことば。いや、正確には、ことば自体ではなく、ことばを挟み向かい合う同士の〈間〉で起こる出来事―それを、詩人は「愛」「約束」「死に打ち勝つ希望」などと名指す。今回の演出と舞台装置は、こうした戯曲(テクスト)の本質を的確に造型したものだ。

次々と能舞台上に現れ、詩人が説く理想論的な「演劇」のあり方に茶々を入れる「皮肉屋」や「文化政策担当者」。逆に過激な挑発を仕掛ける「子ども」ら、詩人以外に登場する8人の言動は様々だが、いずれも詩人の論理とは相容れない。ある意味で、彼らは「反演劇」の人格化した存在として一体であり、事実、1人の俳優(杉山夏美)が演じる。

ただ、台詞の大半を担うのは「演劇」の人格化たる詩人だ。その自己言及―演劇が演劇を演劇で語ること―が戯曲(テクスト)の基本構造である分、演出や演技次第では、物語は抽象的な台詞の堂々巡りに陥る。そうなると、演劇が立ち上がる場としての〈間〉は失われ、詩人の饒舌すら、観客には「おじさんが独りで怒っている」たぐいのものに映りかねない。

今回の舞台では、詩人が敵視するサブカルチャーの代表格、アニメ風コスプレ美少女の姿が「皮肉屋」たちに与えられた。これによって、詩人と皮肉屋にくっきりと〈間〉が刻み込まれ、そこに演劇が立ち上がる。能舞台とアニメの取り合わせは一見唐突だが、日本文化という文脈で考えれば、両者の〈間〉に通底する何かが見えて来るのではないか。

詩人が依って立つ足場である橋掛りが、物語の進展に従って徐々に朽ち、崩れていく演出もまた鮮烈だった。これにより、詩人の長台詞が適度に分節化され、物語に推進力が加わる。とともに、その場に、単なる演劇の危機にとどまらない、より根源的な世界の終焉を思わせるイメージが現出した。上演に立ち会ったピィ自身「自分の演出以上にペシミスティックだった」と漏らしたほどに。

それは、戯曲(テクスト)自体に色濃く漂うキリスト教的終末観と響き合う一方、20世紀末以降の日本アニメ界を席巻した“セカイ系”と呼ばれる潮流との近親性も感じさせた。「私を巡る『小さな日常性』の問題と『世界の終焉』といった抽象的かつ非日常的な大問題とを、中間に社会的な文脈を挟むことなく直結させる」と評されたセカイ系の作品群には、さらに共通する傾向として「独り語りの激しさ」「自己言及の欲望」などが見て取れる。

正統的な西洋の文明観に棹さす詩人は本来、「ことば=演劇」の崩壊を『世界の危機』という極大の物語に直結させ、格調高く散文詩体で語る。ただ、今回は平田オリザ訳の、若者語を交えた口語文体が、詩人役ひらたよーこの一種、草食的な身体性を受肉する。おかげで、その言説が熱を帯びるほど、『小さな自我の危機』を埋め合わせるための、独り語りめいた空虚ささえ醸し出された。曲がりなりにも飢餓や移民問題を語る「反演劇」を否定し、自己言及の内にすべてを解消しようとする詩人の心性―それが実は社会から逃避し、セカイ系の物語の消費に耽る(それゆえ、詩人が批判の矛先を向ける)現代の若者の内なる風景と紙一重、と思わせるほどに。

そして幕切れ、崩壊の度を増す橋掛りから追われても、詩人は能舞台には上がらない。舞台下の白州に橋板の切れ端を並べ、伝い歩くことで、あくまで客席と舞台の〈間〉にとどまる。そして、あたかも世界の終焉を生き延びた唯一の人間、新たに紡がれる創世記のアダムその人であるかのように、漏らすことば―「私は、あなたと共に、苦しむ」。

この最後の台詞は、詩人=演劇が、自らはいかに無力で、様々な矛盾を抱えていようとも、異質で対立するもの同士の〈間〉にあって、双方を結び付ける宿命を受け入れようとする「約束」のことばとして、心に響いた。それは、詩人と、演劇に全く関心を示さない今時の若者とが、その存在の奥深くに心を通い合わす回路を持つことの「希望」を、今回の上演が演劇的に造型し得た証拠ではないか。

詩人の最後の台詞はまた、今回の上演が、国籍も言語も演劇的主張も異なる、言い換えれば、互いの〈間〉を美しい距離で満たす同士の共同作業(コラボレーション)だったからこそ、露わにされた「奇蹟」のことばだった、と信じてやまない。

芒(すすき)挿す光年といふ美(は)しき距離  奥坂まや

(了)

2010年7月22日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)、『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

■入選■
「孤独な」言葉と観客
ー「彼方へ 海の讃歌」(クロード・レジ演出)、「若き俳優への手紙」(宮城聰演出)
(2010年6月12日静岡芸術劇場と舞台芸術公園楕円堂にて観劇)

坂原眞里

クロード・レジの舞台は暗い、とどこかで読んだことがあった。初めて観るその舞台は、暗い、確かに暗い。闇の中に、楕円堂の円蓋と梁が、そして舞台中央の演台の四隅に立つポールが暗灰紫色に浮かび上がる。どこか崇高な空間に身を置いているようでもあり、あるいは濃く滞る靄の中、埠頭とその後方のドームから成る夜明け前の光景を眺めているようでもある。

やがて、ただ一人の出演者ジャン=カンタン・シャトランが「埠頭に」立つ。そして、2時間余、両腕を大きく頭上に上げ脇に降ろす動き(その動線に電光が走り、劇場の闇を神話的次元へと引き上げる)と、頭をそらせるなどのわずかな動作を除いて、その場に同じ姿勢で立ち尽くす。大半は闇の中である。大柄とはわかるが、重く厚みのある体躯も穏やかな顔立ちも、上演が終わるまでその全容が観客の目に入ることはない。彼の背後上方に日本語字幕が出るが、それも私にはかすんで読めない。配られていた原詩の日本語訳を開演前に斜め読みしておいたので、その記憶に助けられつつ、幸い難解ではなかったフランス語を時に目を閉じて聞き入った。

一人の男が埠頭に立って港を眺める。船の出入りが、旅への渇望を激しく掻き立てる。かつて船乗りたちが放恣の眼差しを注いだ場所を経巡りたい、海賊の蛮行をも味わってみたい…リスボンの孤独な勤め人だったらしい作者のペソアにも、フランスのロートレアモン伯爵やアルチュール・ランボーのような文学上の心の兄たちがいたのではなかったか。しかし、やがて直截な暴虐性を増すペソアの言葉は、「年古りたる大わだつみ」の威容それ自体に向けられるマルドロールの敬礼とも、読者を「非情の大河」くだりに連れ出すスウィングとも大きく異なっている。クロード・レジによる声の演出に関して言うなら、それは明らかに、フランスの演劇人アントナン・アルトー後の、声もまた舞台芸術表現における物理的要素ととらえ、その身体性を重視する流れに属しているが、ここでもまた、「海の讃歌」の声の演技は、アルトーが晩年に行った録音の声とは大きく異なる。聴く者に空間の変容さえ感じさせるアルトーの変幻する声(「神の裁きにけりをつけるため」)は、猥雑なイメージを含む悪夢をたわませ、反転させ、人間の解放を希求する。これに対して、レジが行ったのは、リバイアサンが呻き、嘆き、のたうち回るかのようなペソアの言葉を、つまり、近代文明も穏やかな幼年時代も馴致しえない人間性の闇のマグマを、ファドに憑依させたフランス語で擬態することであった。

「埠頭」の男は、歯間から絞り出すように息を吐く。身体の内奥の闇、肉の壁をこすり上げて噴出する声、叫びとなって突き出す顎。体液のように温かく、泥のように重い、荒れ狂う声。男の影は時に巨大な岩塊、時に後足で立ち上がり咆哮する獣にも見える。また時に、多数の身体が多数の声に乗ってうなるようにも思える。神話的位相が縮んで、生身の男の影が現れ、聴く者を怯えさせる鬱屈とした呻きを漏らすことがある。そんなとき、私は、頭の片隅に昔LPレコードで聴いた清明なフランス語の「酔いどれ船」を甦らせ、笑いの炸裂をも生むアルトーの異言に逃げ込もうとした。

つまり、レジの企てが人間性の負のマグマを現出させ、観客をしてそのおぞましさ、哀しさに立ち会わせることであったとしたら、それは完璧な成功だったのだ。そして、「海の讃歌」が、周到な演出と信じがたい強度を保つ声のパフォーマンスによって、驚嘆すべき希有な作品となっていたことは確かである。

オリヴィエ・ピィの「若き俳優への手紙」もまた、孤独な言葉の舞台であった。しかも、おそらく、人間性の負のマグマ以上に客席に届かせることの困難な、正しさを主張する言葉である。そのような言葉は、演じれば演じるほど胡散臭くなりかねない。それに、そもそも表題からして、一般観客は「手紙」の対象ではない。加えて、その主張は、「初めに、ことばがあった」キリスト教の、その「ことば」に奉仕すべき演劇の言葉の擁護である。それをいかにして日本の観客に届けるか、演出の宮城はこの困難を充分意識していたようだ。そして、能の形式を援用することで、ほぼ見事に難題をクリアした。公募による美術も演出の意図によく適っている。

橋がかりを思わせる朽ちかけた木橋のベンチに、長い白髪に異形の女が座っている。となると、たいていの日本人観客の場合、女の語るであろう言葉を聴く体勢にスイッチが入ってしまう。ここで、私たち観客はさながら諸国遍歴の僧となって、孤独な言葉に耳を傾けるのだ。

女が批判する演劇界の現状は戯画化されていて、彼女の訴えが粗雑に思えたり、「御ことば」の訳語で「手紙」の世界が一転狭くなるかの印象を受けたりするが、それはピィの原作の問題である。

ピィの企てと演出力は、静岡デビューの二作よりも、その翌年の三作の方によりよく現れていた。その内の一作「少女と悪魔と風車小屋」が、2011年春に宮城の演出で上演されるという。どうなるのか、今から楽しみだ。

2008年8月14日

『若き俳優への手紙』(オリヴィエ・ピィ作・演出)

カテゴリー: 若き俳優への手紙

道徳劇は蘇るのか?――オリヴィエ・ピィ演出『若き俳優への手紙』

                             北村 紗衣

 オデオン座の芸術監督であるオリヴィエ・ピィ作・演出『若き俳優への手紙』は、2008年Shizuoka春の芸術祭の締めくくりとして、6/28(土)及び29(日)に野外劇場「有度」で上演された。
『若き俳優への手紙』は演劇そのものを主題とする二人芝居で、もともとはコンセルヴァトワールで演劇を学ぶ学生に向けて書かれたものである。プロローグではジョン・アーノルド演じる男性の詩人が登場し、舞台を志す若者に真の「反抗」を教えると宣言する。彼は舞台上で化粧をし、かつらをかぶり、女物のローブをまとって老いたる悲劇の女神に変身し、一種の劇中劇を始める。女神が言葉(parole)の芸術を称えていると、「コミュニケーション担当大臣」や「豚」などという名札を下げた演劇の敵たちがやって来て攻撃を仕掛ける。彼らは重みのある言葉ではなく無味乾燥で効率的な伝達(communication)のみで全ては事足りると主張して女神を嘲う。一方、味方となる「真の観客」も登場して女神を励ますが、この敵及び味方の役柄は全てサミュエル・シュランが演じている。激しい議論の果てに劇中劇は終わり、エピローグでは女神は化粧を落として再び男の姿に戻る。そこにシュラン扮する若者がやって来て、先程まで自分の友がここで言葉の芸術を称えていたと語り、演劇の力を肯定する台詞を口にする。これによって女神の努力が無駄ではなく、演劇という言葉の芸術が若者によって受け継がれ、生き続けることが暗示される。
 劇中劇という入れ子構造を採用し、演劇論を主題としている点で『若き俳優への手紙』は典型的なメタシアターの作品である。しかしながら「メタシアター」といういかにも近代演劇らしい言葉とはうらはらに、この芝居は驚くほど古風な印象を与える。
 この芝居の「古めかしさ」は、抽象概念を擬人化して舞台に出すという中世カトリックの道徳劇(morality play)を思わせるスタイルに起因している。中世の道徳劇の多くは、「人間」(Man)や「万人」(Everyman)というような全人類を象徴する名を持つ主人公が、「悪徳」(Vice)の誘惑で道を踏み外しそうになり、それを「美徳」(Virtue)や「善行」(Good Deeds)などが救済しようと努めるという筋書きになっている。抽象概念は全て擬人化された役柄として舞台に登場し、善悪の葛藤はそうした登場人物同士の争いとして表現される。こうした道徳劇は大衆の教育を目的として中世ヨーロッパで広く上演されていた。
 『若き俳優への手紙』はこうした道徳劇の方式を忠実に踏襲している。主人公である悲劇の女神は演劇の擬人化だ。一方、敵たちは演劇の力を封じようと企む「悪徳」の擬人化だと言える。『若き俳優への手紙』においては「言葉の受肉」という表現がしばしば用いられるが、悲劇の女神とその敵たちは、まさに抽象概念が肉をまとった存在、「言葉が受肉した」存在として舞台に登場する。
 『若き俳優への手紙』は、アレゴリーとしての人物が登場するという点のみならず、若き観客を演劇の「美徳」へ教え導く教育的役割を担っているという点においても中世の道徳劇に近い。男性の俳優が女装して女神を演じるという一見現代のドラァグの文化に通じるような演出も、中世劇においては男が女装して女を演じることもあったという経緯を考えれば一種の「先祖返り」である。言葉の受肉がテーマであることも含めて、この作品は伝統的なキリスト教、さらに言えばカトリックの哲学を忠実に踏襲している。
 しかしながら、「言葉の受肉」を論じる際に、演劇に敵対する「悪徳」をも擬人化して舞台に上げることは果たして賢明なのだろうか。女神は演劇における言葉の受肉の重要性を切々と訴え、薄っぺらな「コミュニケーション」においては言葉が受肉しえないと語る。しかしながら皮肉なことに、彼女をあざ笑う演劇の敵たちは既に肉体を獲得して舞台に姿を見せてしまっている。言ってみれば、この芝居においては受肉しえないはずの敵たちが受肉して舞台に上がり、言葉の領域を侵犯しているのである。得られぬはずの肉体を得てしまった演劇の敵たちは、不遜な肉体で老いたる女神を愚弄する。女神の意志は若き俳優によって引き継がれるものの、肉をまとった「悪徳」たちはあまりにも強力に見える。
 現代の観客は、おそらく中世ヨーロッパの観客に比べると抽象的な事柄を擬人化することには慣れていない。抽象を抽象のまま考えることに比較的慣れている現代の観客に対しては、演劇に敵対する悪徳を徹底的に「受肉」し得ない存在として提示したほうが効果的だったのではないだろうか。『若き俳優への手紙』は中世の道徳劇を現代に再生させる意欲的な試みであるように思えるが、悪徳に肉体を与えてしまったがゆえにかえって焦点がぼやけてしまったように思われる。薄っぺらな言葉が横行する現代社会において道徳劇が敵として必要としているのは、昔ながらの方法で擬人化された悪徳ではなく、実体がなく軽薄な影にすぎないがゆえによりいっそう不気味な悪徳なのではないだろうか。

(観劇日:6/28)