■卒業者劇評
“言葉”の悲劇
奥原佳津夫
有度山の深い翠を借景に緋傘が立てられ、裏を返せば文明開化の錦絵をあしらった傘も並んで、ハイカラな野点といった風情。ただし床に敷き延べられたのは毛氈ならぬ、血だまりのような日の丸である。襷掛けの女中が十人ばかり紙袋で顔を隠し、それぞれの写真を遺影のように抱いて立ち並んでいる。法服の男たちが登場し、謡の会めいた座興に人形として使う女を品定めする。こうして劇中劇として幕の開くSPACの『王女メデイア』は、まさに“言葉の悲劇”と呼ぶにふさわしい作品であった。その“言葉”と“悲劇”について、以下三つの観点から見てみたい。
まず第一に上演形式から。古代ギリシア悲劇は、ヨーロッパの言葉の演劇の源泉たる詩劇であって、擂鉢型の客席をもつこの野外劇場は往古の上演を偲ぶにはうってつけなのだが、この上演は古代劇を模したものではなく、台詞を語るSpeakerと人物の動きを受け持つMoverが分離した、いわゆる二人一役の手法が採られており、むしろ義大夫語りと人形、丸本歌舞伎の床と役者の関係を思わせる。この演出者(宮城聰)が開拓してきた独自の手法と云えようが、今や充分に成熟し、一つの演劇形式として確立した観がある。ことに、端座したまま客席に垂直に語られる台詞が、そのロジカルな構造までも存分に伝え、動きと分離することによって、むしろ豊かな言語表現を獲得していることに注目した。西洋古来の劇詩の、近代劇的な感性が曇らせてしまった一面を、東洋的な語りの手法が再発見した、とも云えようか。
第二に社会的な側面から。古代ギリシア悲劇は、紀元前五世紀に都市国家の祝祭に国家行事として上演されたものであり、その劇場は同時に、社会的、政治的、言論の場でもあった。現存するほとんどの劇詩が神話時代に材を得たものであるとはいえ、そこには、当時の都市国家とその市民にとってのアクチュアルな問題が読み込まれていた筈である。この上演では、Speakerを男性、Moverを女性に振り分け、明治末期から大正を思わせる時代設定の下、メデイア役の女性を朝鮮半島の出自とすることによって、ギリシア神話の異邦の魔女の物語は様相を変え、現代日本の観客が無関心ではいられぬ問題に引き寄せられている。これは、劇場を詩の言葉に耽溺するのみならず、アクチュアルな言論、言説に向けても開かれたものにしようとする試みと云えるだろう。
第三に、戯曲解釈の面から。上演は、前述の外枠の設定によって(男性による)言葉の収奪というテーマが明確に打ち出される。冒頭、女性たちが紙袋を被って立ち並ぶ光景に示されるように、言葉の収奪は、個性の収奪、(固有の)文化の収奪でもある。そして、男性たちの法服によって示されるように、支配する側の言葉は固定化され、権威付けされ、流布される。イアソンが手にして登場する書物(侵略者の視点による『アルゴ船記』か?)、塔のように聳え立つ無機質なオブジェいっぱいに挿された本、鬘桶のように使われる小道具の蓄音機が、その表象となる。メデイアの悲劇は、言葉の収奪の悲劇として読み換えられる。
実子を殺害するというメデイアの復讐手段は様々に解釈され、その動機づけは作品解釈の眼目である。原戯曲どおりに読めば、家系の隆盛を何より望む夫から、その機会を奪うことが目的であろうが、それだけで我が子を手に掛ける動機として充分だろうか?(余談めくが、ハイナー・ミュラーが『メディア・マテリアル』で提示した、「己の血を回収する」という概念は注目に値する。)この上演では、メデイアの子別れの愁嘆場を無対象で演じさせ、その傍らで当の息子は本を読んでいるという形で、完全なディスコミュニケーションを視覚化した。つまり、息子はすでに支配する言葉の側に取り込まれてしまっているのだ。メデイアの子殺しは、ミュラーにならえば、(父親の)言葉から(息子の)肉体を取り戻す行為、ということになる。
大詰、原戯曲では竜車に乗ったメデイアが登場する件りでは、意表をつく演出がなされる。それまでMoverとして男たちの言葉の支配下にあった女たちが、Speakerの男たちを殺害するのだ。芝居の外枠部分の概略を追えばこうなるだろう―座興の劇中劇が進行するうち、女の一人が手籠めにあって争ううち男を殺してしまう。(これが領主とその娘の毒殺にオーバーラップして演じられる。)それを契機に事態は破局へと向かい、メデイア役の女が巫女鈴を打ち振るのを合図に、女たちが男たちに襲いかかって鏖殺する。―芝居の幕切れとしては見事にキマる。だが反面、“言葉の収奪の悲劇”としては、これは復讐になりうるのか、という疑問も浮かぶ。緻密に提起された問題を単純化してしまいかねないからだ。原戯曲のメデイアが領主にも警戒されるのは、男の武器である言葉=ロジックを存分に使いこなす優れた知力の故でもある。そう考えた時、この上演形式における女たちの復讐は、ナイフを振るう実力行使、肉体の言葉への復讐であるよりも、計略の進行に従って、いつしかMoverとSpeakerが入れ替わるたぐいの、したたかな言葉の奪還であるべきなのかもしれない。
最後に一つ、この演出の特筆すべき点として、舞台上の離れた場所から終始展開を見守っている浮浪者めいた老婆を置いたことに触れたい。この老婆が舞台の進行に関わるのは二回だけ。メデイアが復讐の計画を乳母に打ち明けた時、彼女も言葉を奪われた女たちの一人らしく、それに応える台詞を手元のテープデッキから流す。原戯曲にこの場の乳母の台詞はない。(エウリピデスがことさら謎めかしたわけではなく、当時俳優は三人しかいないため、冒頭の乳母を演じた第二俳優はイアソンに役替わりしてしまっているという上演法の制約によるのだが)過激な復讐計画を年老いた乳母がどう受けとめたのか、演出者はこの乳母の沈黙に着目して、メデイアの情熱とは距離を置く台詞を、いわば幕外のコメンタールとして付け加えた。
幕切れに、老婆は初めて演技エリアに足を踏み入れ、殺害された男の骸を上着で覆ってやる。同じ言葉を奪われた女の一人でありながら、暴力による復讐に(あるいは復讐という選択自体に)与しない第三の視点を設定することで、作品のメッセージは多義的なものとなり、この老婆の存在は興味深い。ただし、そもそもが重層的な(記号過剰な)この作品構造に、さらに一つ外枠を加えることは、観ようによっては、結論を躊躇う演出者の留保のようでもあり、この第三の視点は観客に委ねてもよかったかもしれない。
小雨模様のこの日、芝居ごころある雨風は劇展開につれて絶妙の効果となり、満席の観客に野外劇の醍醐味を存分に味わわせる一夜となったことを云い添えておく。
(於.舞台芸術公園 野外劇場「有度」 2010.6.26所見)