劇評講座

2010年7月22日

『4.48』(スン・シャンチー振付)

カテゴリー: 4.48

■準入選■

あの時何を思って生きていただろう・・・・

杉山早也佳

彼らの演技・演出の合間、合間そんなことを思った。
(6/6)4・48という作品に私は出会った。作品内容も、タイトルも知ることなく・・・
彼ら(カンパニー・シャンチー・ムーブ)のオープニング(プロローグ?)を観て、ああ、そこは私の居た場所だ、もう帰りたくない場所だ。それと同時に綺麗だと思った。
“美しい”とは違う、漢字のままの“綺麗”という表現が適切に感じた。
そして私の今までの人生、いや正確には人生の半分は綺麗だったのではないか?と自分に問う事ができた。
(今私、だったと過去形を使った??)そう4・48は私の人生の半分だった。

作品中の描写(絵画・音・起こり来る衝動)は精神を侵すそのものであり連想する空想・妄想・ビジョンは、まさしく頭の中の映像そのものである。サラ・ケインの残したものからも得たのだろうが、そう感じられたのはスン・シャンチー氏の表現力の素晴らしさ、そしてカンパニーの表現力の凄さと感じた。

そんな事がどうして言えるのか、わたしはこの歳までの半分、人生の半分をサラと同じような感覚・感情で生きていたから。生きていたなどおこがましく流れていたに近い。
精神科医はまとめて私たちのことを鬱と呼んでいる。しかしその中身は幅広い。
しかし、この作品を観て感じ、過去形を使ったことによって今私の人生は大きく動いた。
・・・ 私は、汚く・暗く・いやらしい世界に身を投じている・・・であったのが、その先を、観て見たいと思えた。その先を彼らに演じて見せて欲しいと・・・。
私はこの作品に出会い、私の観念であった汚く・暗く・いやらしい世界を綺麗だと思えたのである。
感謝の気持ちでいっぱいになった。心からありがとうと申し上げたい。
サラ・ケインは28歳でこの世を去ったと資料でわかる。この歳で亡くなり、作品を表現される事があるからこそ、彼女の死の意味や、あり方を考えなくてはと思った。
私が偶然にも彼女と同じ28歳であること、同じ感情を抱いていたこと、今日この作品を感じられたこと。・・・きっと人生に偶然など無い。だからこれからの人生をどう生きることで、カンパニー・シャンチー・ムーブに感謝の意を伝えられるのか?
それは、わたしたち観る側・感じ、受け取る側としての傲慢な感情かもしれない。
人の心は絶対に理解できることなんてない。しかし知りたいし知ってもらいたい!
人間は、そんなわがままな感情を持つ生き物である。100%作品を理解するなんてありえないが今日、私が作品を感じ心からカンパニーに“ありがとう”と思ったのは事実である。
そして、サラ・ケインにもスン・シャンチー氏の心をかきたててくれてありがとうと・・・

サラが今何を感じているのか?空の彼方から彼女も綺麗と思ったのならば、わたしたちは救われる。