劇評講座

2014年6月27日

■依頼劇評■『ファウスト 第一部』(ニコラス・シュテーマン演出、ハンブルク・タリア劇場)『ファウスト』のポストドラマ的展開について 奥原佳津夫さん

■依頼劇評■

『ファウスト』のポストドラマ的展開について

奥原佳津夫

 ニコラス・シュテーマン演出『ファウスト 第一部』は、劇文学としての文豪ゲーテの詩劇とポストドラマ的演劇形式の拮抗を枠組として、テクストの作品世界を拡げてみせた刺激的な上演だった。歌手、ダンサーと楽師、数人の日本人エキストラが加わるとはいえ、専ら男優A、B(フィリップ・ホーホマイアー、セバスティアン・ルドルフ)と女優C(マヤ・シェーネ)の三人で、この長大な戯曲を三時間の舞台に上げること自体驚くべきことだが、ミニマルな演劇手法で古典戯曲のストーリー展開をなぞることにこの上演の眼目はなく、一人芝居の応酬とでも云うべき特異な手法が、テクストの生成する意味をめまぐるしくゆさぶり、時に裏返し、拡張させてゆく。主要登場人物三人にしぼって名場面集式に物語を構成するのでもなく、ポストドラマ的上演の材料としてテクストを解体するのでもなく、巨大な文学作品を舞台上のパフォーマンスと敢えて対峙させて緊張を持続しつづけた絶妙のバランスが鍵である。

 日本語字幕の他に、場と登場人物を赤字で示す電光掲示板が吊られ、劇場の壁がむき出しの、イリュージョンを剥ぎ取られた裸舞台。ジーンズにジャケットの普段着姿の俳優Aが「コンニチハ」と控えめに挨拶して、手元の戯曲を、よく知られた「献辞」から読み始めるのだが、必ずしも観客に語り聴かせるわけではなく、歩き回りながら聴きとれないほどの小声になったりもする。このテクストの文学性、レーゼドラマの面が冒頭に示されるのだ。
 原戯曲自体が、序幕に「舞台の前狂言」と「天上の序曲」(直接的に「演劇」をめぐる詩人と舞台人の対立を描く場面と、この世の営みを“世界劇場”として俯瞰する視点)というメタシアトリカルな場面を二重に配しているのだが、その導入部で演出者は「文学」と「演劇」の関係を問う姿勢を明確にする。
 「作者をして語らしめる」と、客席に向けて開いた本を立てたまま退場してしまうアクションは、劇文学を読む行為と舞台上演との葛藤の極。演者は「前狂言」の座長と道化の台詞で、上演を優先する立場を述べ、本の頁を毟り取って投げ散らかす。表紙だけになった本は、指人形式に詩人の不満を訴えるが、舞台はパフォーマンス優位に傾斜してゆく。
 耄碌した老教師の「主」と騒がしい生徒の「天使たち」というファルスめいた天上のシーンも、Aの一人芝居が続き、赤く光る小さな三角のツノをつけると、斜に構えたメフィストフェレスになる。(続く「夜」の場のワーグナーや地霊、「市門」の市民たちまで、声色を使い分けて演じる一人芝居は、相手役を仮想して演じる近代劇式とは違っている。台詞は主に正面切って客席に向けられ、極端に声音を変えたり、過剰な激しさで叩きつけられたりして、作中人物の描写や物語よりも、テクストを肉声化する演者のパフォーマンスが前景化される。)
 転がしの付いた扉を正面奥に据えると博士の書斎。裏返すと模造紙が貼られ、地霊を呼び出そうとするファウストは、そこに塗料をぶちまけ、体を擦り付け、アクションペインティングまがい、さらにはマイクに台詞を語りつづけながら、灯油を撒いてライターを点火する、という’60年代のハプニングを連想させるシーンが繰り広げられる。

 開演約一時間後の、ファウストとメフィストフェレスの対面から演者交代。背後の壁に映写された女の白い影がプードル犬に変じ、Aのファウストの台詞が続くうち、同じ扮装の俳優Bが机を持ち出して来て、本を開き冒頭の「献辞」から読み始める。分身の出現にとまどうAのアクションを他所に、ストーリー展開はBの一人芝居に引き継がれてゆく。
 同じ扮装の二人の俳優は、A=ファウスト、B=メフィストフェレスを一応は設定しているが、交換可能であるとともに、それぞれが一人二役を演じる場面もあって、役の固定、峻別をさせない仕掛け。それは物語レベルで云えば、両者の分身関係をあからさまにし、メフィストフェレスがファウストの願望の生んだ存在とも、逆にファウストがメフィストフェレスの生んだ傀儡とも見えてくる。それ故にこそ、二人手を取り合い声を揃え、「瞬間よ、止まれ」の誓約の文言を力強く唱える契約のシーンは圧巻である。

 「アウアーバッハの酒場」は、背後の壁と舞台を囲むように左右客席袖に吊られたスクリーンに踊る男女の映像が映写され、現代のクラブのイメージ。エキストラ、ダンサーらがシルエットのように立ち乱れて盛り上げたところで、ソプラノ歌手が歌うのだが、「ゲーテが初稿で書いたのはノミの歌ではなく、ヘルダー批判への反対の歌だった」という意の歌による歌の註釈が挿入されて、物語に同化しかけたところで、舞台面のパフォーマンスに距離が置かれる呼吸は巧みである。また、戯曲テクストの成立史が、唐突かつ直接的にコラージュされることで、却って“舞台上演/パフォーマンス”が一層鮮明に意識される場面でもある。

 続く「魔女の厨」からマルガレーテを見染めるまでを、女優Cの一人芝居で見せる。彼女もまた戯曲冒頭の一部から語り始めるのだが、すると、作品世界はA、B、Cそれぞれの読む戯曲『ファウスト』の現前であって、それぞれの作る世界が相互に干渉し、浸食しあい、上演は常に不確定性を孕むとともに、時に意味を増幅しあう三層の視点をもった構造体として提示されることになる。(演出者のピアニスト出身という異色の経歴を知ると、“主題と変奏”という音楽的な技法が思い起こされ、演劇作品への援用かとも想像される。)
 Cが、魔女やメフィストフェレス、隣家のマルテを演じることは、少女マルガレーテの人物像を多面的に見せるきっかけともなる。清純な少女の内にも、欲も計算高い部分もあろうかと窺わせるのは、贈り物の宝石を表す天井から下がった輝く鎖を首に巻いて、将来を思うマルガレーテの声音が、少女と呼ぶにはいささか生々しく俗に響く時である。
 また、A=ファウストがB=メフィストフェレスと連れだっているところに、C=マルガレーテが「信仰を持っているか」と尋ねるいわゆる“信仰表明”のシーンは秀逸。Bは呻き声を上げて袖に引っ込み、Aのファウストは、Bにプロンプされて弁明する。再び並び立つ二人に、「あなたの友人が怖い」と云うマルガレーテ。AはBと距離を取るのだが、するとマルガレーテはBに寄り添って続く台詞を語りかけ、Aは逆転してメフィストフェレスとして疎外されていることに気づいて戸惑う、という場面。自分ではファウストであるつもりが、いつの間にかメフィストフェレスになっている、不確定性のライトモチーフが強調される。

 劇後半では、重層化された“時間”の表現が目についてくる。
 ベッドに腰かけ独白するマルガレーテの背後の壁には、留守に忍び入ってそのベッドで寝具を弄び恍惚とするファウストの姿が映写されており、劇中の時間軸ではそれより前の出来事が、異時同図的に並置される舞台表象。(また、美女のクローズアップや、ベッドで恍惚とするファウストなどの映像がストップモーションになるのは、「瞬間よ、止まれ」のフレーズを思い起こさせるものでもある。)
 終盤に向け、時制の重層的な表現と表現手法の混淆は更に加速してゆく。
 舞台上左右に置かれた映写機から、空を飛ぶメフィストフェレスとファウストの姿が映写されつづけ、視覚的なエンターテインメント要素としても面白い。以下、その映像の前で繰り広げられる舞台上の表現を列記すると―Cが床に倒れ込むようなコンテンポラリー・ダンスの振りを繰り返す。やがて男性ダンサーが登場して同じ振りで同調する。女性歌手が赤子の人形を手に提げて出て来て、舞台後方で無造作にポリ袋に捨て、歌い始めるのは「苦しみ深き聖母様」の歌。至美の歌声と“嬰児殺し”の即物的な表現のギャップが衝撃的。小さな十字架が立てられる。クラブ・シーンの映像が流れて、Cが酒場で妹の自慢をする兄の台詞を語ると、ダンサーは兄の役になって、Cのマルガレーテを「バイタ!」と罵倒し、唾を吐きかける。ダンサーは、兄が決闘で殺されるアクションを、独りでダメージを受けつづける身体表現で見せる。独り残ったC=マルガレーテは、発狂して牢の中、という終幕の場面にそのまま繋がってゆく。
 つまり、Cが倒れ込むような所作を始めた時点で、劇中の時制としてはマルガレーテはすでに投獄されていて、
以下の展開は、発狂した彼女の回想であり、映像で空を飛び続けるメフィストフェレスとファウストの時制と、この牢内のマルガレーテの時制の間でストーリーは展開しているという、多彩な表現手法を巧みに連鎖させて手際良く、しかも緻密に構築された重層表現が楽しませる。

 終幕はシンプルに、牢内を示すエリア灯りの中のマルガレーテ(C)と、救出しようとするファウスト(A)が、あえて云えば近代劇的な同化演技で見せ、マルガレーテの狂乱の振れ幅が大きく攻撃的なほかは、リアリスティックな表現に馴染んだ観客にも違和感のない芝居だろう。灯りから外れた闇の中に立っているメフィストフェレス(B)が、ぼんやり見えるだけで終始無言という演出は、常に影として付き纏う存在が際立って気が利いている。
 舞台上には小さな十字架三つが立てられており、これらは物語の上からはマルガレーテの母と兄と赤子を示すものだが、この終幕まで残されることで別の意味を担い、三人の登場人物/演者と対になった舞台面の絵面から受ける印象は、三つの人生/魂の表象である。

 幕切れは、Cが役から離れて素気なく、「彼女は裁かれた/救われた」の台詞をト書きとともに語る形で、劇冒頭のテクストの次元に回収されるかのようだ。C、Bは立ち去り、独り取り残されたAが、終演を告げる頭上の字幕を見上げるところで灯りが落ちる。
 ここで気になるのは、最期に独り取り残されるAは、いったい誰なのだろう、ということだ。物語の発端の書斎のシーンを思えば、結局はファウスト博士ということになるわけだが、さらに遡って「天上の序曲」を思い出すならば、(また戯曲『ファウスト 第二部』の結末を知っていれば、)物語が閉じたその時に独り疎外されるのは、同じくAが演じていた天界のはぐれ者メフィストフェレスであるのかもしれない。いやむしろ、この劇全体が役柄の不確定なままに、三者三様に語り直され重ね合わせられた物語であるのだから、その幕切れに十字架とともに孤独に立つのは、どの役でもなく、どの役にもなりうる「人間=Everyman」と解してこそ、ゲーテの原戯曲が天上界から奈落までも包み込んだ中世劇的“世界劇場”でもあることを思う時、いっそふさわしかろう。
 一見、雑多な要素を手当たり次第に詰め込んで、表現手法の拡張を試みたかに見える上演には、実に緻密な計算が張りめぐらされていた。

(於.静岡芸術劇場 2014年4月26日所見)