■依頼劇評■
「距離感」めぐる奇跡的体験
柳生正名
ジゼル・ヴィエンヌ「マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」「Jerk」評
フランスで演劇やダンス、人形制作など多彩な分野で異彩を放つジゼル・ヴィエンヌ。彼女が振付、演出、美術を担当し、ロレーヌ国立バレエ団によって日本初演されたダンス作品「マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ―」に静岡で直面した。文字通り、それは〝直面〟という語でしか表現できない事件だった。少なくとも、その直後に同じジゼルによる演劇作品「Jerk」の直撃を受けるに至るまでは。
オーストリアの作家マゾッホの小説「毛皮を着たビーナス」に基づく「マネキン」の主人公は一人の男である。もっとも、針のように攻撃的な踵を持ったピンヒールが真の主役という捉え方も可能だ。と言うのも、幕開きから終幕まで、ピンヒールは密かに、だが確固として舞台上に存在し続ける。原案となったマゾッホの作はマゾヒズムの語源となったことでつとに知られるが、本作の場合はフェティッシュな嗜好、さらに言えば、「くり返し、女性性たちを演出しないではいられない」(ジゼル)という男の本源的な欲望にスポットライトが当てられる。
夜。誰もいなくなった高級デパートか、ブティックのサロンを思わせる空間。並べられたソファの背後には幾体ものマネキン人形が放置され、どこか観衆めいた姿の彼らに取り囲まれた薄暗闇の中で物語は進む。一様にピンヒールを履いた人形たち、その一部はやがて動き出し、血が通い、観客の眼には特権的な身体を持つバレエダンサーであったことが分かる。
この作品では、ジゼルが制作したハイパーリアルなマネキンの存在こそが、人間とそれをかたどって作られた人形との境界の曖昧さ、言い換えれば、人間と人形との間の距離の不思議さ、という作品のテーマを浮き彫りにする。一方で、人形を人の似姿に合わせて作り、息を吹き込んで動くに至らせる「神」の役割を果たす何者かの存在も暗示される。それが主人公の男ということになる。物語の舞台も、おそらくは主人公がひきこもる自室であり、その内面世界の反映でもあることが次第に分かってくる。
とすれば、カソリック文化の下に生まれ育ったジゼルにとって、物語は神ならぬ卑小な存在の主人公が、あえて神として振舞う閉ざされた世界で、神同様に抱く「世界計画」の結末を描くという色彩を帯びざるをえないだろう。さらに、この男と人形の位置関係は演出家・振付家と役者・ダンサーの距離感にもつながっていくはずだ。
旧約聖書の創世記によれば、神は土から人間を作った。その土に当たるものがここではピンヒールと言えるかもしれない。実体として存在し、その中にやがて華々しく羽化する本質を湛えた蛹か繭を思わせる存在は、実は靴の方。それを履き、ファッションショーのモデル風の歩みやヒップホップさながらの人形振りで、蛾か蝶でもあるかのように妖しく男を挑発する数々の人形は、男がイマジネーションの中で作り上げ、演出した虚像にすぎないのではないか。実のレベルで男の部屋に存在するのはピンヒールに違いない。
並んだソファの片隅にぽつんと1足のピンヒール。そんな舞台に男がたたずむ冒頭部。そこに美しい身体と醜悪な仮面をまとい、登場する1番目の人形は、くちづけ寸前まで男を誘惑しては突き放す。やがて、仮面を外し、美しい素顔をさらしもすることで、後から登場する他の人形たちと比べ、肌触りの確かさを感じもさせる。おそらくは男が深く接した実在の女性の記憶を多く反映しているのだろう。
一方、その後登場する女性たちは、テレビゲームやアニメの世界で言うところの、さまざまなキャラクター属性―1970年代のフレンチアイドル歌手風であったり、ピンナップガール風であったり―を与えられているが、皆ピンヒールを履き、これ見よがしな身体の表情はどこか画一的だ。全体として、最初の女性を原型に劣化の度を加えていくコピーという印象が色濃い。
かたや、男性は舞台上をうろうろ歩き回り、自分の生み出したさまざまなイリュージョンと、どのような距離感を取るべきか、迷い続ける。それ自体は、必ずしも病的な行動ということではない。芸術と言う枠組みで考えれば、イマジネーションが生み出す現実からの跳躍は表現者にとって大きな武器だ。
ただ、実際の表現行為では、そうして得られたイリュージョンと自らの間に、その都度、適切な距離感を設定し、客観化していく作業が必須だ。従って本作では、主人公たる男が、ダンテが描いた地獄(実は天国かもしれない)さながらの内面世界を巡る旅の結末で、現実や仮想との適切な距離感を見出すに至るかが重要なポイントとなる。
その中で、最初から舞台に存在したピンヒールを男性から渡され、髪を振り乱して狂乱の体さえを示す第2の女性の存在は重要だ。今回演じたのはバレエ団唯一の日本人ダンサーである大石紗基子。命なき人形が支えを失って、突然崩れ落ちるさまなど、その人形振りは迫真的で、特権的身体という言葉を体現したかの存在である。
主人公はこれら人形たちとの距離感のありようを試行錯誤した末、この第2の女性が履いていたハイヒールを取り戻すことで、人形達との「距離のとり方」についてひとつの衝撃的な結論を得る。それは「距離の放棄」と言うべきもので、おそらく男の内面という視点では天国的な至福につながる行為だが、客観的には破滅的な決着と言わざるを得ない。
今回静岡の地で、やはり日本初演された「Jerk」も〝距離感〟という問題が問われる点では「マネキン」と同じだ。ただ「マネキン」ではその距離感が、舞台上の主人公と人形達との間での問題として提起されたのに対し、「Jerk」ではリアルな世界と舞台上で起こっていること、さらに演じる役者と演じられる役、さらには舞台とそれを観る観客との間の問題に設定し直される。観客自身が作品の提起する問題を担う共犯関係に置かれる分、一層自身の身に迫った衝撃を覚悟せざるを得ない。
実際、今回は開幕前に「上演中の退出方法」について観客に説明があった。日本での演劇上演ではあまり経験のない、この出来事の持つ意味を、観客は開幕後に嫌と言うほど思い知らされる。
出演者はただ一人、腹話術と人形遣いの超絶技巧の持ち主ジョナタン・カプドゥヴィエル。椅子に腰掛けた彼が、膝の上で数体のグローブパペット(中に手を入れて動かす手袋状の人形)を両手両腕で操り、1970年代に米テキサス州で起こったシリアルマーダー(連続猟奇殺人)を題材に共犯者による独白の形で物語は進む。
役に入り込むため、相当な時間を掛けて行われたジョナタンの集中の〝儀式〟は驚くべきものだったと言う。実際、その演技における役柄と自身の役者としての心身との距離のとり方は、スタニスラフスキー・システムを基に米国で独自の発展を遂げた「メソッド演技法」を思わせる、と言うよりは、土俗的なシャーマンか霊媒さながら。自らをよりしろに、既にこの世にいない事件の主犯や被害者らの魂を呼び戻し、当時を語らせるかのようだ。事前の集中が外部から見てある種の秘儀めいた色彩を帯びるのは、能や文楽における日本の伝統的な演技のありようともどこか重なる。
「マネキン」でピンヒールが自らを基体にさまざまな女性の虚実ない交ぜのイメージを羽化させ、花咲かせるように、「Jerk」ではジョナタンの体が基体となる。そして、猟奇連続殺人の虚実ない交ぜ(ジゼル自身は物語の細部はあくまで小説家デニス・クーパーの生み出した虚構であることを強調する)の様相が観客の脳内におぞましい像を結ばせる。ただ、「マネキン」ではそうしたイメージが舞台上で台詞を語らないダンサーたちの特権的身体で視覚化されるのに対し、「Jerk」では、陰惨な犯行の状況が腹話術や声帯模写の技術を駆使した台詞と擬音によって再現される点が異なる。
実は「Jerk」では人形劇の持つ性格上、視覚的にはさほど迫真的な状況再現は行われない。ただ、よくできたラジオドラマがそうであるように、音声情報により、観客自身の体験が記憶の深層から引きずり出され、脳内に構築される肥大化した図像の迫力それ自体が、その観客を脅かし、途中退席にさえ追い込む。
本作で、視覚的な要素として観客の心中にインプットされるのは、性的で残虐な行為の当事者たちの人格を腹話術を駆使して召喚し、そこから発する音をあられもなく再現するジョナタン―その眼差しや素振りに宿る集中力の凄まじさだ。それによって、観客の目には、演じるジョナタン自身の人格と演じられる役柄との間の距離感が喪失し、目の前で独白を続けているのは殺人現場に居合わせた人物そのものとしか感じられなくなる。
このように、観客の脳内で起こる現実とフィクションとの間の距離感の失調こそが、観客自身に日常では感じられない不快感や恐怖をさえ生み出す。ブレヒトは〝異化効果〟を採用することで舞台上の出来事への観客による過度の感情移入=リアルとフィクションとの間の距離感の喪失を避けようとした。「マネキン」では、ある意味で台詞のないダンサーたちの非日常的身体による視覚表現で、ブレヒトの主張通り過度の感情移入は回避され、観客はリアルとフィクションのはざまの距離感を喪失した男の悲劇を客観視できる。ところが、「Jerk」では演者の極限的な集中力と聴覚のもつ特性によって観客自身の距離感の失調として実現される。観客は「マネキン」の主人公の内面で起こる事態を、「Jerk」では自分自身のものとしてリアルタイムでそのまま生きることになる。
そもそも両作品は連続上演のために制作されたものではないだろう。にもかかわらず、今回、それぞれの演目の特性にマッチした場が確保され、理想的な環境での2作続けての上演が実現したことは、ある種の奇跡と言って良い。こうした真の意味での演劇体験を味わうことのできる場は、先進的な芸術監督制を確立した公立劇場で行われる「ふじのくに⇔せかい演劇祭」という枠組みなしには、現在の日本では、ほとんど考えられないのではないだろうか。
であればこそ、その場に立ち会いえた者は、そのことの至福を味わい尽くすべきだろう。たとえそれが途中退席で終わる体験だったとしても―いやそのような体験だからこそと確信を込めて断言したい。
(了)