「愛のおわり」、という心ひかれるタイトル。フランスの新作劇だという。ポスターを見ると、極限状態、の感じの男女がいる。パスカル・ランベール作・演出、平田オリザ日本語監修。
フランス人というと、いくつになっても「アムール」の為に生きている、愛の達人、というイメージなので、国全体がいつもすごく忙しそうで、でもそれは愛以外の何かの為である国に住んでいる人間としては、絶対見なくちゃ、と思った。この国では、愛を育むのに必要な心のエネルギーが、圧倒的に、何か別のものに奪われている。
偉大な先達の話を聞くつもりで、それに怖いもの見たさもあって、足を運んだ。(なぜなら、男や女というものを知り尽くしている彼らなので、別れるときはまた、とんでもなく深い洞察力で、えぐるように残酷なことを言うのだろうな、と思ったのだ。)
幕が上がると、一組の男女が登場する。「始めようか」と言って、男が話し始める。はじめは何を言っているのかさっぱりわからない。別れ話、最後通牒を男が女に突き付けているらしい。女は客席に半ば背を向け、無言のまま。男はひたすらしゃべり続け、自分の言葉を自分で承認する。女の表情(観客からは見えない)を勝手に解釈し、「その手は食わない」と言う。自分には全てが分かっている、自分は正しい。女は妨害者なのだ。
難しい言葉(カタカナ)を用い、論理的に聞こえ、隙を与えず、聞き手を無視した、というか聞き手をねじ伏せるコトバが滔々と流れてきて、不快感と眠気を誘う。とても「今風」な話し方だ。大量のコトバが使われているのに、何も伝わらない。伝えない為にしゃべっている。煙に巻いて「話し合った」ことにしてしまう。コミュニケーションした「ふり」で、本当はゼロ。聞いているのが苦痛になってくる。
でも、場面が変わって女の話が始まった途端、目がさめた。短くて、グサグサ刺す、活きのいいコトバが女の口からポンポン飛び出す。舞台の上に淀んでいた空気がいっぺんに温かく息づき始め、二人の真の関係がわかって来る。心からの本当の思いを語る言葉は、罵倒ですら気持ちがいい。威勢のいい啖呵に、男は打ちのめされ、小さくなっていく。彼女の勝ちだ。
でもこの作品は、勝ち負けの話ではなかった。
勝ったはずの彼女は、倒れ伏した男に「愛しい人」と呼びかける。彼女の中で、愛は死んでいない。裏切りに遭っても、許し、手を差し伸べることが出来る。
女は「形のあるものは、みんなあんたにあげる」と言う。「あたしは形のないものを、みんなもらう。」愛し合った時間の中の、一瞬一瞬の思い出を、彼女は全部取っておく。彼女が思い出を数え上げるのを聞きながら、心が震えた。舞台が輝いて見えた瞬間だ。何もない舞台に、目に見えない「愛」というものが、たしかに輝いて見えた。
愛の本質に加え、この作品は言葉の質についても語っていた。
私たちは日々言葉の氾濫に浸かり、大量の言葉が飛び交うことがコミュニケーションと勘違いする。(実はもう、それが「コミュニケーション」であるのかもしれない。)本物の人間関係を築くことより、コミュニケーションそのものが目的のようだ。
真実の言葉は温かく、力強く、聞く人の心に響く。言葉は人格まで決定する、この二人の男女の人生のように。愛のある、いい人生を送る人は、心からの真実の言葉が語れる人だ。