明日国はべつのところにある
サーカス団は決断を迫られていた。今いる土地で翌朝から新しい化学工場の建設が始まる通達とともに、企業から化学製品の宣伝役のオファーがある。条件は、三年前に命を助けて以来彼らと一緒にいる知恵おくれのエリを施設に預けること。工場の毒ガスが元で病気の子を連れていては宣伝に支障がある。契約すれば貧困から解放されるが、悪を自らの手で宣伝することになる。
戯曲『サーカス物語』は、彼らがこの問題に直面する現実の世界を提示するプロローグ、舞台がおとぎ話の内部に置かれる第一景から第七景、翌朝サーカス団員たちが下した決断を見せるエピローグで構成されている。
上演はこんな風に始まった。稽古着姿の俳優たちが三々五々集まって来て舞台脇の会議机に着席し、それぞれが『サーカス物語』から連想して持ち寄った私物を紹介する。戯曲の中で現実世界とおとぎ話とが作る二重の構造の外側にもう一層の世界を立ち上げるこの場面は、虚構の外側から物語を見つめる視点を提示する。
円形のステージに無言の俳優たちが現れ、抑制された独特の動作を繰返す。役を演じてはいない。私自身の言葉を話す個人とも違う。これから少女エリを演じる布施安寿香さんが本を開き、アコーディオンの音がかすかに糸を張るなかエピローグを読み上げて溶暗。現実から滑り降りるようにじわりと戯曲の世界へ導かれる。ふっと薄明るくなるところから、舞台は登場人物たちの生きる世界に移る。
場面の順序は原作から大胆に再構成されていた。エリがジョジョにおとぎ話をせがむプロローグの終わりからはじまり、第一景、第三景、プロローグ全体、第二景……併せて、戯曲では団員たちがその場に最後までいるプロローグに、途中で一同立ち去ってジョジョとエリだけが残る演出が施された。
わたしたちは二度見つめることになる。
アコーディオンを弱々しくふかすピエロのジョジョと二人っきりの少女エリは、自分たちの出てくるお話をしてくれるようせがむ。やわらかい発声と無防備な佇まいに役の設定が投影され、飾らず可憐である。一方のジョジョも、ピエロにしても度が過ぎておとぼけな言動や行動に説得力を持たせる、多動症と見えるほど大胆な人物像が選ばれ、ユーモラスに演じられている。ともに近代的に精神の病として囲い込むよりはずっと大らかな、個性として印象深い。ジョジョはついに話し始める。あたたかく繊細な、それきりの出来事である。
この場面がお芝居の第一印象として刻まれる。おとぎ話のなかで王女エリが王子の影に恋して自らの面影を鏡の精に託す第一景、王子が大蜘蛛にたぶらかされる第三景を経て、再び現実世界のプロローグへ。わたしたちはここではじめてサーカス団が直面する問題を具体的に知らされる。エリだけが落ち着いた声で「みんないいひと」と繰返す。結論が出せず一同黙り込んで去ると、もう一度二人っきりのあの場面が巡ってくる。
おとぎ話の続きのなかで二人は会うことができない。王女の面影を宿した鏡の精さえ粉々に砕けてしまった。
夢から覚めたようにサーカス団員に囲まれた場面へ舞台が移る。一同はエリのためにセレモニーを催し、明朝一緒に出発しようとお開きになった。エリとジョジョだけが語らっている。
彼がおみやげに拾って来た鏡の欠片を見た瞬間、少女は鏡の精の名を呼ぶ。別人のように確かな口調でおとぎ話の続きのような自らの前世について滔々と語りはじめ、ついにすっかり王女と入れ替わってしまった。
するとピエロの控えめな口調は失われ「気が狂ったみたいだ/わけのわからないこといってる!」と、抱擁の手から身を引いて「こんなあわれなのらくら者にそんなこといってどうする気だ? いくらおれの顔を見たって何もさぐり出せないぞ」と男の声が響いた。王女が胸のしこりに手を当てると、彼は思い出したと声をあげ彼女を抱きしめた。王女が本来の姿を取り戻してついに王子に会えた、すばらしい奇跡のはずである。原作通りに上演していたら、二人だけのやさしい時間には、実はこの景ではじめて対面するにすぎない。
王子には、かつて奪われた理想郷の明日国があった。団員たちと行ってみると、大蜘蛛の支配で荒れ果てていた。網の重なった大きな幕にその大きな影が映っている。王子は国を取戻すため謎かけを申し出、自らの完璧を誇る大蜘蛛が持たない「愛と勇気と想像力」の大切さを滔々と訴える。
この場面には人間が影絵芝居の人形を担うワヤン・ウォンの動きが取り入れられていた。王子たちが幕の手前で人形のように動きながら言葉を話す。幕の向こうの大蜘蛛から見ると、彼らは「わけのわからないこといってる」影なのだ。かくして、お互い暴力に訴えた戦闘にもつれこむ。
大蜘蛛はエリから奪った鏡の欠片を見つめて心を奪われる。ついに自らの面影を見たとよろこんで飲み下すと、おのれのみにくく苦しむ姿と対面し谷に崩れ落ちてしまった。この欠片には王女の面影が眠っていたのではなかっただろうか。一行は明日国へ揚々と去る。
舞台はエピローグへ、現実の翌朝、サーカス団の場面に移る。みんなおとぎ話であった。団員たちは企業との契約書を破り捨て、エリに寄り添って立つことを選ぶ。
前々景、セレモニーのなかで彼らがエリに伝えたことがあった。ひねくれて自嘲的で怨みがましかったしょうのねえ仲間が、エリが彼らを見るまなざしによって人が変わったのだと言う。
王子も王女も大蜘蛛も鏡の精も、みんなおとぎばなしであった。永遠に通わないそれぞれの真実を滔々と述べる影たちである。前景の戦いの場面に王女ではなくエリがいたら、大蜘蛛は死なずに済んだかもしれない。
エリはこのお話のなかで一度も現実と戦ったことなんてなかった。はじめからずっと、幸せだったのである。
参考文献
ミヒャエル・エンデ(矢川澄子)『サーカス物語』(1984年7月、精興社)
(大島かおり)『モモ』(2005年6月、岩波書店)
安達忠夫『ミヒャエル・エンデ』(1988年3月、講談社)