コメディー作品を見たような、けれども、トンデモなく「オソロシイ」ものを見てしまった後のような。観劇後しばし呆然として立ち尽くしたその劇について、私は今書こうとしている。そんなこと出来るのだろうか? しかし言語を超えた、日々消化される悲劇のカタルシスを乗り越えたリアルの表象を、その劇は現にやってのけたのだ。
段々と薄暗くなる階段をひたすらに下った地下の劇場。四方を観客席に囲まれた、うらびれた盆踊りの舞台のようなセットに、軍服を着た体格のいい男が帽子を深く被ってやってくる。緊張。しかし張りつめた空気は一瞬にして破られる。「今日はどちらからいらっしゃったんですか?」「その座席、見えづらくありませんか?」。そう、登場の瞬間、役を伴って現れたかのように見えた彼の身体は、「Keita」、つまり俳優の身体のままである。彼は観客の私たちを見ることができる。会話ができる。場を和ます。「楽しんでいってくださいね」。そしてようやく舞台が始まる。
以後「彼」は、戦争の只中であろう、脈絡の分からない話に入ったかと思えば、舞台から降りて、観客とのやり取りを始めたりする。音楽に合わせ、手を打つように促される観客。四方の辺で一人ずつ決まった観客に、ぐるぐる回りながら彼は向かい合う。はい、手を叩いて。はい、踊って。はい、声を出して。ちらほらとそうした指示に従わない観客の姿も見える。そうした「おフザケ」に見える双方向的なやりとりと、時に塹壕戦で必死に指示を出す「隊長=磐谷和泉」としての演技とが何度も交互に行われる。劇中幾度も繰り返される、誰に向けたのかも分からぬ叫び「揺さぶるのをやめろ!」は、さながら観客席と舞台とを、役者としてそして役目としての身体を行き来する、この劇そのものにも向けられているようにすら思われる。
ここで終わっていたのなら、私はこの劇を見たことすら忘れてしまったに違いない。気が付くと、「隊長」は死の門戸をくぐっている。灰を自らに塗りたくることで彼は自らを埋葬する。かの『気狂いピエロ』のように、狂気の方向へ人をいざなっていくのだ。
通常、死者は話すことはできない(という風に思われている)。それに役目は舞台上で観客を切り離さなければ完結した物語を築けない。しかし、死者になっても尚「彼」は戦争への怨恨を発話し続け、観客たちを見ることができる。ここで観客はようやく気付く。目の前にいる「彼」は、俳優と役目とが単に切り替わったものではないということに。今までの積み重ねの混沌の中から、自分たちとは異次元にいるはずの、しかし自分たちをしっかり見据えた、存在が生れる。安全を担保する、観客席と舞台の間にあるだろうオリは外された。今、「彼」は、観客の身体の中をまっすぐ下って行く。死者が私たちを目にできるということは、私たちも半分死んでいるということだ。今までは「隊長」が俳優であることに安心しきっていた。ここで起っていることは、全てがフィクション。どうせ少し経てば忘れてしまう。しかし、知らず知らずの内に、舞台を降りるその度毎に、「隊長」が現実世界に食い込みつつあったのだ。俳優と役目とが完全に溶けきったその中で、今度は死者の発話が現れる。私たちが目にしているのは、俳優と役目と、その延長である死者とが入り混じった存在で、「彼」は私たちをじっと見つめている。
死体である「彼」は、観客に線香を持つように促す。そうして赤いドレスを身に纏い、煙の中へゆっくりと消えていく。消えていくと書いたが、実際に消えるのではない。息をはりつめた観客の呼吸が再開する頃、「Keita」が再び姿を現す。スタッフを紹介する。もう大丈夫だ、しかし、一時立ち上がってきたあの存在は一体誰だったのだろうか。
そうして私はしばし呆然と立ち尽くすことになった。よく考えれば、髭面の男が赤いドレスを身に纏って踊れば、「一般的には」おかしい風景であったに違いない。しかしあの瞬間、私は疑問を差し挟むことさえしなかった。目の前にある人を、当たり前の存在として見つめていたのだ。(余談であるが、買い求めた台本は縦書きで右開き=逆帳であった。しかし、それさえそうであるのだと思わされる自分がいる。)
戦争の話、と聞いたときに、どうしても身構えてしまう自分がいる。頭では分かっていても、悲しみや苦しみを現に思い浮かべること、(vor-stellen)することはできない。けれど今回、越境するKeitaの身体の元に、私はとんでもない、途方もないリアルを感じることになった。