「嬲」という漢字がある。なぶる。辞書によると、おもしろがって人をからかったり苦しめたりする、愚弄する、もてあそぶようにいじる、という意味の漢字であるようだ(三省堂大辞林)。SPAC「ふじのくに⇔せかい演劇祭」のパンフレット、『ファウスト 第一部』のページには、まさにこの字のような写真が使われている。金髪の美しい女性を挟んで、シャツの前をはだけた二人の男が密着している姿。女は、グレートヒェンであろう。男は、どちらかがファウストで、どちらかがメフィストであろう。観劇前の私は単純にそう考えていた。しかし、この写真、「嬲」の構図こそが、ニコラス・シュテーマン演出のこの『ファウスト 第一部』の核であったのだ。
『ファウスト』のあらすじを説明するという野暮なことはしたくない。が、話の根幹に移る前に、前提を踏まえておこう。ファウスト博士は哲学、法学、医学、神学という全てを極めながらも、退屈な自分の人生に嫌気がさしている。いよいよ死のうと自暴自棄になった復活祭の朝、鐘の音と共に、天使の歌を耳にする。(そこで気が付く。これは今の時期の話なのだ! 今年2014年の復活祭は4月20日、ファウストとメフィストが遊びに出かける「ヴァルプルギスの夜」は、4月30日から5月1日の間に行われる。さらに余談になるが、筆者はハイデルベルク遊学中にヒトラーが作らせたという山の上の石造りの劇場(Thingstätte)でこの「ヴァルプルギスの夜」(=別名、魔女の夜)を体験した。一晩中火を絶やさぬ傍らで、友人たちと次々にビールやワインの瓶を空けて朝を迎えたのである。)生きよう、と決めた彼の元へ、神と賭けをしたメフィストがやってくる。「時よ止まれ、汝は美しい!(Verweile doch! Du bist so schön.)」そう口にした途端に、今度はファウストがメフィストに仕えることになるのだ。ファウストは全く別の人生をやり直すために、美しき少女グレートヒェンを自分のものにしようと画策する。
タリア劇場の『ファウスト』の面白いところは、ほぼ全ての台詞がモノローグの形で進行していくところであろう。劇作家も、神も、メフィストも、ファウストも、揚句グレートヒェンまでが同じ俳優の口を借りて登場する。この人がファウストで、この人がメフィストで、などとボヤボヤ考えている暇などない。ものすごいスピードを伴って、世界が広がっていく。そこで不安を感じさせないのは、やはり俳優の力量に多くを負っているに違いない。服装や俳優の性別で、ああ、この人はファウストだろう、グレートヒェンだろうと思い込んでいるとすぐに裏切られるのだ。
ということで、冒頭に紹介した「嬲」状の場面に関しても、男のどちらがファウストで、どちらがメフィストなのか、完全には分離していない状態で男二人は少女を挟んで抱き合い、キスをする。
アメリカ生まれの英文学者に、イヴ・セジウィックという人がいる。彼女は『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』の中で、「ホモソーシャル」という概念を提唱した。対象を18世紀から19世紀のイギリス文学にしながらも、男同士の絆を創出するために、女性を介在させるという三角関係を発見したのだ。二人は女性を巡るライバルにもなるが、その真なる目的は互いの関係にある。そこでは同性愛的なものと同時に、ホモフォビア的なものが蔓延る。「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」。
分離されぬファウストとメフィストの二者は、グレートヒェンを介在させて互いを求めているのではないのか。シュテーマンの演出の端々にそう思わされる箇所があった。誓いの言葉を何度も復唱し、確かめ合いながら、ファウストとメフィストと入れ替わる、服装を同じにした俳優二人は何度もキスをする。そもそも役を完全に二人に分けることがないと言うこと自体、二人の連続・関係性を浮き彫りにするものではなかろうか。それは神とメフィストの会話に於いても同じように言えるであろう。会話を途中で切り上げ、会話であるモノローグからいなくなった神は、メフィストの方の発話に吸収されたのだと考えることもできる。ファウストを介在して、二人は、二人の関係を求めているのだ。(そもそもメフィストは天使から転じたものであるし……)。
思い起こせば、冒頭ファウストが、扉を中央に左右に描いた二本の赤い線も、舞台の縁を一辺とした大きな三角形であった。(それにしても扉にオノという組み合わせは、無条件にある映画を思い起こさせる。)文字通り「嬲」られ、死んでしまったグレートヒェン。ぜひとも続きが見たいものだ。