このスペインの「体験型演劇」について語るには、少々の迂回を必要とする。というのも、この「新しい」パフォーマンスに類似したものを、私は既に4年前に体験したことがあるからだ。1988年の創立以来、30ヶ国、130以上の都市で、800万人を動員している「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(以下、DID)。これとの比較なしに『よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン』(以下、ちょっとしたレッスン)について語ることは、(少なくとも私には)不可能に思われる。
DIDは、視覚障がい者のガイド(アテンド)に引率されて完全な暗闇のコースを1時間程度でたどる「暗闇のソーシャルエンターテインメント」であり、日本でも1999年11月に初開催されて以来、現在は外苑前(東京都)で常時開催されている。私が体験したのは2010年、創設地のフランクフルトにおいてだ。一見(一聴?)視覚障がいの疑似体験が目的のように思われるが、創設者のアンドレアス・ハイネッケが「新しい感覚や新しい文化を知るためのものであり、生活環境、習慣の違う人たちと出会うためのプラットフォームなのです」とインタビューで語っているように、五感の新たな解放を目的とする、アート性の強いコンセプトを保有している。コース内部では交差点のような身近な場所から、川や森といった自然が再現され、簡単なヨガをしたり、オプションによっては船に乗ったり、介助者とディナーを楽しむこともできる。
さて、本題に戻ろう。『ちょっとしたレッスン』では言語と記憶についての幻想的な短い朗読の後に、参加者(事前に荷物は全てフロントに預けており、身軽な格好である)は暗い通路に誘導される。そこで「よく生きる」、そして「よく死ぬ」ための2つのドアを提示され、どちらかを選択させられる。その後、靴を脱いだ状態で目隠しを渡され、真っ暗な中を前後の観客に手を任せ、民族衣装を着た「スタッフ」(と呼んでよいのやら。スペイン人に混ざって日本人の顔もちらほら)に誘導され、コースに足を踏み入れる。内部では、微かな音楽や芳香を感じることができ、じきに席に誘導されると、あちこちでブリキに水を注ぐような音がする。やがて柔らかな手が、心地よいお湯に私の手を浸し、洗ってくれる。その後、目隠しは外され、しかし暗闇でよく視界が開かぬまま(天井の方は明るく、たくさんの布が釣り下がっているのがわかる)、喘ぎ声が聞こえ、音楽がし、ぼんやりと明かりがついたかと思うと(そこで初めて自分たちが一つの大きな空間にいることがわかる。生きるためと死ぬためのレッスンは、入り口は2つでも実質は同じものであったのだ!)、少人数で囲む円形になった座席の真ん中に、全身に布をかけた遺体のようなものが担架で運ばれてくる。グループに一人ずつ配置されたスタッフが布を剥がすと、頭はメロン、というように、全身がフルーツやパン、乾物で形づくられていたことが分かる。ザクロ味の飲み物(血液を模している?)が各人に注がれ、乾杯をしたのち、観客は自由に食べ物をつまむことができる。昼食前だったこともあり、私などが比較的むしゃむしゃとフルーツを口に運んでいると、一人ずつ観客が手を引かれ、ダンスをするように促される。ダンスが終わるころ、観客は再び少人数のグループに分けられる。そこでは小さなろうそくの灯りを頼りに、配られた紙に「人生の最後のことば(絵)」を記入する。記入が終わると紙は回収され、裾を縫い合わせたシャツの中に仕舞い込まれて天井に、他と同じように吊るされる。それと交換に別のシャツが下され、その中の紙に記された、誰かのエクリ(私は初日最初のグループであったので、よく趣旨を理解していたであろう人が前もって書いていたのかもしれない。正解を見せられるような緊張感があった)を交換に観察し、また順に引き連れられた者からドアをくぐって、元のホールに戻る。
このように、暗闇を元にした五感の解放というコンセプトは、DIDとどうしても類似している。費用のかかっていないそれ、と言うこともできるかもしれない。『ちょっとしたレッスン』はDIDと、一体何が違うのであろうか?
まずは、それがパフォーマンスとして行われることが圧倒的に異なる一つの点である。目に見えるパフォーマーが存在することで(DIDでは最後までガイドは暗闇の外で姿を現さない)、一連のパフォーマンスや出来事の発信者が特定でき、ある一定の見えない劇場のような連帯感が形成される。さらに、船でコースをぐるりと回るディズニーランドの<小さな世界>のように完全にコースが出来上がっているDIDとは異なり、『ちょっとしたレッスン』では、観客はそこで何を感じるべきなのかを強制されない。ストーリーがあるようでない、具体的な場所が想起されない空間で、自らを探し出すしかないのだ。また、ガイドの語りによる指示を仰ぐDIDと比較しても、『ちょっとしたレッスン』では最小限の言語のみが用いられ、コミュニケーションに言語は媒介とされない。
このように『ちょっとしたレッスン』では、自らが徹底的に試される。聞くこと。嗅ぐこと。触ること。感じること。考えること。食べること。書くこと。見ること。しかもそれらのすべてが言語を媒介とせずにいいのだ。正解は恐らくないだろう。しかし、このような環境に於いて、段々と自然に、心もとなくなる。知らず知らずのうちに、正解を探してしまっている普段の自分にも気がつく。他の観客の真似をすることもできない。まっすぐ前を向いてストーリーのみを追う、なんてことはできないのだ。感情移入をしようとも、その先がない。ひたすら自分と向き合う他ないのである。
それにしても、普段隣の席にいても全く交流のない観客同士が、肩に手を伸ばす、ダンスをする、という身体的接触をすることによって、脱観客化し、結果として脱舞台化する。人生の最後に、生と死の間に、ちょっとばかりよく生きる/死ぬためには、こうした自然な越境が必要なのかもしれない。
(参考)http://www.dialog-im-dunkeln.de/de (DIDドイツ語サイト)
http://www.dialoginthedark.com/free/?no=171 (DID日本版サイトより、「ハイネッケ×金井真介インタビュー(2002年 ソトコト)」)