劇評講座

2015年6月2日

■入選■【ファウスト 第一部】大野裕果さん

「よい本」との出会いは人生を豊かにする。

だから本をたくさん読みなさい、と周りの大人に言われながら育ってきた。

しかし、人生を豊かにするよい本との出会いというものが、単に本を一冊読み終わったあとで「あー面白かった」と思うだけのものではなく、そこに記されている言葉ひとつひとつをその後の人生をかけてじっくりと自分の中に落とし込んでいきたい、と思えるようなゆったりとしたものであるということを気づかせてくれたのは、ゲーテの「ファウスト」だった。

そんな「ファウスト」という戯曲が、ふじのくに⇔せかい演劇祭で上演される運びとなった。

上演される舞台は16世紀のドイツではなく、2014年の静岡だ。観客は、時代も宗教も価値観も、ファウストとおよそ共有することができないだろう。

では、ドイツからやってきたその芝居は、静岡の私たちに一体どんなものを見せてくれるのだろう、どんな「ファウスト」を「体験」させてくれるのだろう、私の胸は期待に踊っていた。

シュテーマンの演出する「ファウスト」の大きな特徴は、やはり1人の俳優がファウスト、メフィスト、ときにはグレートヘンと役を演じ分けていくところである。

1人の俳優が2人分、3人分の台詞を発しながら進行する舞台は、テキストが居場所を求めて彷徨っているようであった。

芝居というのは完成された状態でフレームの中に収まり、観客はそのフレームの中に切り取られた空間を覗きにいくものだというイメージが漠然と私の中にあったが、この「ファウスト」という芝居はそのようにはじめから完成されたものとしては私の前にあらわれなかった。

テキストは俳優の中にいるのがどうにも居心地が悪いらしく、舞台上にある身体を行ったり来たりしている。

それは、ゲーテによってその生涯を注ぎ込まれて書かれた愛すべき言葉たちが、俳優や観客の中へと簡単に落ちていくのを拒んでいるようにも見えた。

そのためこの芝居の序盤は、まるで主演俳優が芝居そのものに疑問を持ったまま幕が上がってしまったかのようなアンバランスさを抱え、私たち観客は芝居に対し「よくわからない」といった「とっかかりにくさ」を覚えることとなった。

しかし、その「よくわからない」という漠然とした気持ちこそ、今ここで上演される「ファウスト」を鑑賞するうえで大切にするべき感情なのではないか。

この芝居は、1人の俳優が何人もの登場人物を演じ、しばらくするとそこにもう1人俳優が現れ、いよいよ会話がはじまるのかと思わせながら、今度ははじめの俳優が舞台から姿を消し、2人目のひとり芝居がはじまる…という風に進行していく。

いつになったら会話らしい会話、演劇らしい演劇が見れるのだろうかと思うほど、2人目、3人目とひとり芝居は続いていくが、物語は誰が何を演じようが構わずに進んでいく。

そこで我々は、テキストが物語に沿って進んでいくスピードと、俳優がそれを追いかけていくスピードが別々に舞台の上に存在する、つまりこの舞台においてはテキストと身体というのは乖離したものであるということに気づくのだ。

その発見と共に舞台を見てみると、素の舞台や、ファウストによってペンキまみれにされた扉、説明文にもあるようにボロボロのジーンズをはいたファウスト、素肌によれたシャツ姿のメフィストなどは、改めて「ファウスト」を演じるには現代的かつ自由なヴィジュアルであり、それらすべてが別の要素としてこの場にかき集められたもののように見えてくる。

しかし、そのように別々の要素として存在していたものたちも、グレーテヘンの登場から徐々にひとつの形に集約することを目指すようになる。

舞台にあがる俳優が3人になったことで、テキストを読み上げる身体におのずと役割のようなものが決まってくる。ボロボロのジーンズの男は花占いをするよりも愛の言葉を若い娘に囁く方がはまっているし、素肌のはだけたシャツを来た男は悪巧みが似合うのである。

俳優の役割が明確になるにつれて、観客の「よくわからない」という気持ちが薄れてくる。そうして観客の気持ちが舞台の上で繰り広げられるドラマと共有されていき、芝居は完成へと導かれるのである。

「導かれる」と書いたが、では、一体誰が芝居を完成へと導くのだろうか。 それはテキストそのものなのではないか。

身体をおいてどんどんドラマを進めていっていたテキストが、終盤に差し掛かる頃にはファウストの台詞はファウストの中に、メフィストの台詞はメフィストの中に収まっていくのである。

これは、中途半端に自分が舞台にさらされることを良しとしないという意思を持ったテキストと、その気持ちを十分にケアしたシュテーマンとの和解の物語なのではないか。
シュテーマンは「ファウスト」を見事に演出しただけではなく、そんな風にテキスト自身と、俳優や演出家自身との対話も同時に舞台の上で描いたのだ。
そして、知らぬ間に二つの物語を見せられていた観客である私は気づいたのだ。
これこそが、現代の「ファウスト」なのだと。