劇評講座

2015年6月2日

■準入選■『よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン』を「観て」 番場寛さん

 演劇を成り立たせているのは目の前で繰り広げられている光景を「演劇」とみなす「観客」の意識である。それは日常の物品を美術館という場で「オブジェ」と観ることを強いる、マルセル・デュシャンの「レディメイド」の「作品」と同じである。言い換えれば、演劇とは日常生活での人の眼差しを「観客の眼差し」へと変える「装置」のことなのだと思う。ではそうした装置によって生み出される「観客の眼差し」とは一体どういうものであろう? それは目の前で繰り広げられている光景を、同時にそれが別の時空で繰り広げられている光景として見ることのできる思考のことである。

 そうしたメカニスムそのものを大胆に演劇化した作品が寺山修司の『観客席』であった。例えば劇の始まる前に観客に忘れ物を告げるアナウンスが場内に流れたかと思うと、それ自体も仕組まれた演劇内の台詞であった。ひとたび「観客席」に座ると久しく繰り返されてきた舞台と演劇の運びの約束事に慣らされ、やがて緊張を欠き、それが演劇を観る喜びを減じることへと繋がっている現状を何とか打開しようという方法の一つとして採用されているのが、「観客参加型」と呼ばれる種類の「演劇」である。
 今までに見たこうした種類の演劇では、2010年のフェスティバルトーキョーで観た『パブリック・ドメイン』という作品が印象深い。それは池袋の公園で観客が身につけたヘッドフォンの指示に従い、異なった集団に分断され、その分かれた集団ごとに異なった衣服を着て役割を明示することで、本当は何も分けられていない個人の集まりが、指示に従うことで強いられたように行動していく、「都市」や「国家」や、さらにはもっと広い「政治」そのものの姿を、演じることで「観客」自身に納得させるという構成であった。そこでは自らが演じるが、自分の目で見るのは他の「観客」が演じる姿である。
 今回の『よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン』では、観客が他の観客の演じるのを見る機会は殆どなく、最後の部屋、「よく生きるための」か「よく死ぬための」かの選択を迫られた後、目隠しをさせられ案内人に導かれ入り、目隠しを外された後も俳優の無言での導きに従うだけで、自分の意思で「演じている」という意識は持たなかった。
 観客の目を覆うことで、視覚以外の感覚を研ぎ澄まさせ、観客の想像力を最大限に発揮させることは、見せないことで逆説的に「観客の眼差し」を獲得させる方法であったが、この作品が重みを得ているのはその「生と死」というテーマの二重性によってである。目隠しを外された 観客が最初に目にするのは、白い布で被われた凹凸のある物体で、誰もが遺骸の模型かそのふりをした役者が横たわっていると想像するが、覆いをとられた板の上に並べられているのは野菜や果物を盛られたいくつもの皿であった。それを分け合い食べ一緒に乾杯をするのは、ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』の最後のシーンを連想させる。カニバリスム、つまり死者を食べることでの再生を思わせる。観客に入り口を選ばせる二つのドアと同じく、この劇は常に「生と死」が重ね合わせられているところに特徴がある。
 しかし『パブリック・ドメイン』のような、「見るもの」と「見られるもの」という主体と客体の二重性をひとりひとりの身体に実現した緊張感はこの劇の最後のシーンまでは生まれなかった。
 飲食と踊りの宴という「生きる喜び」を模倣した後にグループごとに座り、自分の人生の最後の頁を文字なり絵なりで描くように指示されたときもその二重性は意識されなかった。皆が描いた紙を集め、俳優が白いシャツに入れ天井に吊したとき初めて、部屋の天井につり下げられている多くの白いシャツや下着が意味を帯びた装置として観る「眼差し」が観客に生まれる。あれは無数の人たちの墓碑銘でもあったのだと。
 俳優が、さきほど自分がシャツを吊したあたりを見上げ、再び台に上がりシャツを下ろす。その下ろしたシャツを開けるとそこには紙が重ねられてある。それを広げて観客にすべて見せる。太陽の下に人が立っているような絵が見える。スペイン語らしきものでびっしり書かれているものがあるが読めない。日本語で書かれているものは、どれも引き込まれてしまう。記憶しているのは「今39歳である。苦難の連続であった。今生きているということを実感している……」「生きた、生きた、生きた」である。予め用意されたものかどうかは問題でなくなる。それを自分の人生の最後の頁に描かれていることと想像して描いた誰かがいたことは間違いないのだから。
 その時突然、この劇の最初に紙芝居風に聞いた台詞が蘇る。「ある男が文字になり、他の文字と一緒に並んだ夢を見た。…… その文字となった男は、それを書く手つきと、文字である自分を見つめる眼差しを感じた。」
 その台詞を聞いたもくせい会館の明るい部屋が入り口なら、その暗い廊下を通り、二つのドアのどちらかを選んで結局行き着いた最後の場所は、その文字となった自分自身を見つめ、見つめられる場所であったのだ。ちょうど入り口と出口、外部と内部が通じている「クラインの壺」のような空間を旅していたことに気づく。劇が終わり、出口に進んだとき「次の『ファウスト 第一部』をご覧になる方は係の者がご案内しますのでこちらでお待ち下さい」と知らせがあったとき、もはや、そこは劇の本当の出口である筈なのに、そこが入り口ともなっている「クラインの壺」の口のように感じ、もはや劇の内部にいるのか外部にいるのか分からなくなっていた。