数年前に京都芸術センターに招かれたジゼル・ヴィエンヌは自身の口から人形を使った演劇を創作していたと説明したが、今回の二つの作品にたいする期待は、ある意味で裏切られた。
『マネキンに恋して』」というタイトルはあまりに説明的である。人間、それも男が人形、特にマネキンに恋をしてしまう話は数多く創られてきた。例えば映画では『ラースと、その彼女』のように現実の女性と接することもできない青年が、何も動かず、言葉も返さないマネキンに服を着せ、語りかけるだけでなく、自分の「彼女」だと周りの人にも承認を迫り、一緒に生活する様は十分説得力のあるものだった。
また是枝裕和監督による『空気人形』もそうだが、それらの作品に見られるのは、それを所有する人間の意識が投影されたものとして人形が使われており、その人形は第三者にはあくまで布やプラスチックなどの物質でできた物であることが明らかなことである。それが命を持たない物体であるからこそ、それに対し感情移入する人物の心理が観客に共感を呼ぶのだろう。それらの人形に対し生きている人間のように接する姿を見ていると、逆に生身の人間とのコミュニケーションも相手を想像してなされる点では、お互いの思い込みによって成立しているのではないかと思えてくる。
それを方法として突き詰めた平田オリザの「ロボット演劇」では、観客はそれがロボットであることを知った上でそれに感情移入させられる自分に感嘆するのだろう。
では、今回の『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズ』はそうした人形を対象とした作品の枠組みに入るのであろうか? それらとは微妙に異なる。静止していても、動いていてもそれらが人間(ダンサー)であることを観客は一瞬たりとて忘れない。観客の注意は、生身の人間がいかにマネキンという人の形をした物体を演じきるかという点に注がれる。
しかし考えてみればこれは奇妙なことだ。商品としての服の魅力をより引き立たせるために、理想の体型の人間を模倣して創られている命を持たない物体であるのに、そのマネキンを生身の人間が模倣するとしたなら、自らを模倣したものを模倣するというまるで合わせ鏡の中に身を置いたような目眩を観客は感じる。
かつて舞踏における理想として「衰弱体」とか「命がけで突っ立った死体」(土方巽)ということが言われた。現代の身体に特に意識的であると思われるダンサー、例えば勅使河原三郎は、踊るときに大きな曲線を描くような動きに混じって、引きつるような痙攣したような動きが混ぜるが、それらの狙いも同じだと思われる。人は病気や怪我で普通の動きが出来なくなったとき、初めて自分の身体に覚醒する。身体の可能性を最大限に視覚化するには、日常的な動きに対立するそれでなければならない。そういった視点に立てば、初めから「死体」であるマネキンが踊るという設定はまさにダンスの理想にかなっている。
そのマネキンの動きとは、手脚の限られた関節による動きであり、首や背骨の関節は普通無いためその部分は動かず、全体として強ばったぎこちない動きをすることを想定した動きである。
男がマネキンを抱え上げ、椅子に座らせマネキンの腕を自分の肩に掛けさせたり、立たせて人間の女性のように抱きしめたりする場面などは、普通人間の女性にしたい欲望を無抵抗な人形にするという行為をステレオタイプ的に演じていた。つまり、絶対にこちらの意向に逆らわず、どこまでも従順な受け身である対象という理想である。
しかしこの作品での意図が巧みに発揮されるのは、マネキンが自らの意思で動いているかに見える瞬間と、その受け身的な瞬間を交互に挟み込まれて場面だ。最初並べてある端の椅子の下に置かれていた一足の靴を、別のところに運んだのは男だが、それを自分で履くのはマネキン自身である。またそこは舞台の後ろの方で、後ろ向きでウエディングドレスのような白い服装に自分で着替えているところを観客に見せた後、舞台の前でマイクで歌い終えた後、ぎこちない人形特有の動きで歩き、その後、舞台前方で倒れたまま動かなくなるのはあくまでマネキンだということを強調しているのだろう。
舞台の背後に本物の人間と見紛うほど精巧に作られたマネキンを配置した上で、マネキンを模倣するダンサーを振り付けているのだが、その狙いは一体何だろう? アラン・バデューは「ダンスが思考の隠喩だというのはどういう意味なのか?」という質問に対し、「ダンスは観念の記述なしに身体が、可能であることを表象するものなのです。ダンスは身体の諸々の可能性が内在しているものであり、純粋な祝賀のアレゴリーである限りにおいて、それ自体で充たされているのです」と答えている。
歩いていた一体のマネキンが椅子に座ったと思った瞬間にそこから転げ落ち、体の強ばりが、そのままバネが入っているかと思わせるほどの、実際にはあり得ないはずの反動による動作を連動させていく場面がある。さらにそうした動きが人間の男と一緒にフロア全体のマネキンに広がっていく。主体の欲望を全面的に受け入れてくれると思っていた受け身の対象に裏切られる瞬間がこのダンスを、ストーリーを持った作品として成り立たせているが、この作品の真の価値は「死体」としての身体を生きている人間が演じることにあるのだろう。
参考
Alain Badiou avec Nicolas Truong, Éloge du théâtre, flammarion,2013.