ふじのくに⇔せかい演劇祭2014初日、劇場から離れ、静岡市街地にある「もくせい会館」にて「これ」が始まった。
「体験型演劇」という単語以上の予習はしていない。
「体験型」あるいは「劇場を離れて」という試みは近年のF/T(フェスティバル/トーキョー)などでも盛んに取り入れられている。
それは時として「演劇とは何か」という根源的な問いにまで遡ることにもなる。
しかし、そのような難しい問題にはひとまず目をつぶるとして、、、
そう、「目をつぶる」というのが、この演目では重要な要素であった。
参加者はまずロビーの一角に集められる
「文字」があり、別の「文字」と合わさり「言葉」になる。
「言葉」と「言葉」が連なり「物語」になる。
「あなた」の人生は「誰か」の書いた「物語」の一部なのかもしれない。
この瞬間も「誰か」のペンによって書かれているのかもしれない、、、
・・・この「体験型演劇」は、自分自身が「演劇」=「物語」であるという事なのだろう。
さて、ひと通りの講釈が終わると、参加者は暗い会場へと案内される。
「よく生きるため」の扉と「よく死ぬため」の扉を選択するよう迫られる。
この回は「生きる/死ぬ」がほぼ半々に分かれた。
各々の扉の前まで行くと、演者があらわれ一枚の細長い布切れが配られる。そして「目隠し」をするように指示される。
これは、一切無言で、ゼスチャーのみの指示である。
目隠しによって「目をつぶった状態」になってしまったわけだ。
目隠しによって「視覚」を奪われた参加者は、近接する他の参加者の気配を感じ、次の行動へと導く演者の気配を感じる。
耳を澄ます。。。
様々な環境音や音楽、台詞ともつかない演者たちの会話に「聴覚」が、、、
手に触れる感覚、頬にそよぐかすかな空気の動きで「触覚」が、、、
様々な香りが漂ってくる、、、「嗅覚」も、、、
日常生活では、それらの「感覚」を特段に意識することはあまり無いが、否応なく「感覚そのもの」が研ぎ澄まされていくのを実感する。
それらの感覚により、真っ暗な閉ざされた視界に自分自身の記憶の中にある様々な光景や、想像の世界が色鮮やかに「みえて」くる。
終演後、初演回だったこともあり、演出のバルガス氏が感想を聞きたいと、ちょっとした集まりがあった。
その時に氏から“「視覚」は「五感」の最上位にあるのではないかとの仮説に立ち、それを謝絶することにより「みえてくる世界を体感する」というのが、本公演の出発点だった”旨の話を聞くことができた。
この試みは概ね成功していたと思う。。。
目隠しによって、いろいろな「感覚」を研ぎ澄ます、、、という行為は、日常生活ではめったに経験することではないが、かといって、それ程斬新なことではない。しかし、本公演のストーリー(?)の流れから、自分の人生(生き方/死に方)について、ちょっと立ち止まって考えてみる事ができたことは事実だろう。
「五感の劇場」と名付けられたこのカンパニーが、他にどのようなレパートリーを持っているのかはわからないが、おそらく、その名の通り観客が「五感」をフル活用して味わう「体験型演劇」なのだろう。
今回の公演は、その中の「視覚」にフィーチャーしたものであった。
視覚、すなわち「みる」ことである。
「みる」と言って一番最初に思いつくのはおそらく「見る」である。目隠しで視界を遮られることは「見ることを奪われる」ということである。
しかし、同じ「みる」でも、演劇などの公演をみるときは「観る」が当てられる。本公演では「見る」ことが奪われて「観る」ことになる。
目隠しは、公演途中で外されるが、周りの様子をみるには「視る」感覚となる。例えば、薄暗い会場の奥の方から白い布に覆われた遺体のような「それ」が葬送行列のように歩み寄ってくるときは「凝視」せざるを得ない。すなわち「視る」ことに他ならない。
「それ」が、車座になっている参加者の真ん中に入ってくる。我々は「それ」をずっと「看て」きており、そして「看取った」瞬間かのようでもあった。
また、演者に導かれ、幾人かが「それ」の頭部のようなところに触れる。「それ」が何なのか、、、「診る」ことにもあたる。
「それ」を覆っていた白い布が演者によって取り払われると、遺体のように見えた「それ」はフルーツや野菜などで形作られたものだということがわかる。そしてグラスに注がれたジュースで乾杯を交わし、フルーツや野菜を口にする。味覚、、、味見、、、味を「見る」!あとから気がついて笑ってしまった。
様々な「みる」を体験し、やがてそれはタイトル通り「よく生きる/死ぬ」ため、自分自身の人生について「俯瞰して」考えることになる。
俯瞰=高い所から見下ろし眺めること
である。こんなところにも「みる」が隠れていた。これらは、あくまで日本語の問題であるので、おそらく演出家にとってはあずかり知らないところではあるだろう。しかし、単純に「視界を遮る」という効果がもたらしたものは「文字と文字が結びついて言葉になる」とプロローグで語られた一節そのものであった。