劇評講座

2015年6月2日

■入選■【Jerk】演劇的欲望の果てに、私たちはまた失敗する 中谷森さん

 アイデンティティーの剥奪こそ究極の殺しなのだ、とディーン・コルルは考えた。裏を返せば、アイデンティティーの獲得という究極の生への欲望がディーンにあったと言えるだろうか。『Jerk』ではジョナタン・カプドゥヴィエル演じるデイヴィッド・ブルックスが上演する人形劇を通して、アイデンティティー、すなわち同一性への渇望に動かされるデイヴィッドの生が描かれる一方で、そうした同一性への試みは必ず失敗するという、人間の、そして演劇の、悲劇的運命が暗示される。
 1970年代初頭のテキサス連続少年殺人事件を元に書かれたデニス・クーパーの小説『Jerk』を、ジゼル・ヴィエンヌが舞台の上に再現した。薄暗い闇の中にカプドゥヴィエル演じるデイヴィッド・ブルックスが一人座っている。ある心理学の教授への謝辞を彼が述べ、この人形劇がその教授と学生たちに向けられたものだということが告げられると、観客は一つの虚構の中でこの人形劇と対峙する。まずはじめに観客は手渡されたテキストの断片——殺人事件の主犯格ディーンと二人の共犯者ウェインとデイヴィッドが一人の少年を殺した場面——を読むよう促される。それから三人による殺人の光景と、やがてデイヴィッドがディーンとウェインを殺害するまでの物語が、パンダやネズミのパペットによって演じられる。それはデイヴィッドが、自身の経験を外在化しようとする芝居であり、テクストがその内で最も距離を置いた視点として導入を促す。舞台の後半では、カプドゥヴィエルの秀抜な腹話術によって、デイヴィッドと死んだ人物たちの言葉が交わされる。時折、抑圧されたように、“quit!(やめろ)”というデイヴィッドの叫びが響くが、それは口から直接出ることのない叫びであり、彼の口からはただ唾液だけがほとばしる。そうしてデイヴィッドの外から内へと演劇が進行していく。
 イメージと現実の距離が生む欲望はまさに演劇的である。一人の生身の俳優が虚構を演じようとするときの欲望、それと同じものに、デイヴィッドは意識的にも無意識的にも取り憑かれている。そしてこの欲望は、この劇場にいるすべての人物——登場人物であれ観客であれ——に共通し、少なくとも四重の構造を持つ。三人の犯罪、デイヴィッドによる人形劇、その人形劇を再現する舞台、そしてこの舞台の観客、この四層の欲望が、行動(action)、演技(act)、受動(passivity)の異なるレベルにおいてイメージと現実の距離を満たそうとする。そうした劇構造において、ジゼル・ヴィエンヌの人形は欲望を顕在化するための実に有効な手立てである。疑似的人間である人形が、イメージと現実の間の、すなわち欲望の絶対的な距離を提示し、演じられるデイヴィッドと演じるデイヴィッドの間の欲望がまずそこに映し出される。そして、観客の想像力が人形に生命を吹き込み、演劇の究極ともいえる瞬間がふと立ち現れるようにさえ思われるときに、観客の欲望が暴かれる。というのも、パンダとネズミのパペットが残酷な殺人犯に見える瞬間、その演劇的欲望の興奮を盛り上げているのは観客であり、観客もまたその想像力を駆使して同一化を目指す残酷な人間であることが明らかになるからだ。パンダとネズミの顔が剥がされ、人間の顔が現れる。上演が進むごとにアイデンティティーを剥奪された人形の死体たちがデイヴィッドの足下に散らばって行く。観客が彼らを殺したのだ。デイヴィッドの唾液が垂れる意外にはほとんどなにも起きていない舞台で、聞こえてくる言葉の断片を人物や悲鳴や分裂と結びつけるのは観客の想像力でしかなく、観客がこの舞台に生命を与えようと試みるほどに、観客は残酷な想像力を行使せざるを得なくなっている。観客は決して受動的(passive)な存在ではない。デイヴィッドと観客は現実と虚構の垣根を超えて、同じく能動的(active)な欲望を持ってイメージに関わっていくのであり、舞台が進行するにつれて両者の欲望はますます差の無いものとなる。
 しかし、同一性への試みはことごとく失敗する。殺人の後には新たな殺人があり、殺人犯は殺され、捕まり、演劇のイリュージョンが終焉する。人形劇を見た学生のレポートがデイヴィッドと観客の断絶を告げ、死んだ人形、役目を終えた役者、夢から醒めた観客だけが残される。不調和と死とが私たちを待ち構えていて、イメージは永遠に私たちを捉えてはくれない。完全なる同一性こそ究極の生であり、また究極の演劇であるというとき、私たちは既に悲劇の運命を辿り始めていたのだ。現実と虚構のいずれのレベルにおいても、私たちの欲望は定めて満たされることがないという認識が、デイヴィッドの牢獄とこの劇場にもたらされた。そこに一人座るデイヴィッドと向かいに座る観客たちは、この比類なき残酷な失敗の先に、はじめて現実と虚構の真の断絶を知り、のしかかる両者の重みに晒されるのではないだろうか。