SPAC版「グスコーブドリの伝記」のブドリの死の場面では、一人島に残ったブドリが、劇全体で使われた木の枠を折りたたんでいく。原作のこの場面にあたる箇所をみてみる。
それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。
このように、木の枠をたたむという描写は原作にはない。そもそも、原作にはブドリのしたことの直接的な描写はない。SPAC版のブドリの行動は、いったい何を表しているのか。
SPAC版では、原作に対する解釈をもとに、原作にあるものを強調したり、原作にないものを付け足したりしている。特に印象的なのが、手帳についてである。恩田逸夫は、「ブドリのことなど」(『校本宮沢賢治全集』第十巻月報 1974 筑摩書房)の中で、「ブドリの行動を推進させてゆく要素として〈学習・勉強〉」を挙げている。この「学習」はブドリの「仕事」につながっていくものである。このことが、SPAC版では、ブドリが肌身離さず持ち、ことあるごとにメモを取る、手帳の強調によって可視化されている。
クーボー博士とペンネン技師は、農民たちを寒さによる飢饉から救う方法についてはブドリと共有する。しかし、クーボー博士は自らがその方法を実践しようなどとは少しも考えず、ペンネン技師はブドリが自ら最後の一人になると言い出すのを聞くまでは、自分がやろうとは言わない。クーボー博士もペンネン技師も、科学の知識による農民を救う方法を持っていても、飢饉に苦しむ農民への救済の思いはブドリほど強くない。この、科学者と農民たちとの隔たりを表現しているのが、SPAC版の、火山局でのお茶のシーンの強調である。(原作において、お茶は、三人がサンムトリ火山の観測機のある小屋にいるときの一回しかでてこない。)三人は、農民を襲う「寒さ」の話をしながら、「ほかほかほかほか」と高い声で表現されるお茶の温かさに身をまかせているのだ。この物語では、唯一ブドリだけが、科学による農民を助ける方法とその方法を実践するための強い原動力の両方をもっている。強い原動力とは、自らの農民たちとの関わりにより、農民を自分の死をもってしても助けたいという思いである。このブドリの物語上での特別さは、美加理の演じるブドリの演技によっても示されている。SPAC版では、ブドリ以外の登場人物は、人形によって演じられている。ブドリだけが人間なのである。しかし、最初の家族全員で家にいる場面では、ブドリもまた人形のようにみえる。段々と経験を重ねていくうちに、ブドリは「人間らしく」動くようになるのだ。これも、特有の経験を重ねることで、科学の知識と強い原動力の両方を得て、ブドリが物語上で農民を救う唯一の人間になっていくことを示している。
また、自己犠牲をもって農民を助けることを、ブドリ自身は「仕事を完成させる」ためと意味付けをしている。この「仕事を完成させる」という言葉は、原作にはない。SPAC版では、ブドリの行動の「仕事」という面に焦点をあてている。一人で火山を噴火させることを、今までのブドリの「仕事」の延長上にあるとし、ゴールであると位置づけている。そのゴールである最後の「仕事」が、木の枠をたたんでいくことなのだ。しかし、実際のブドリの行動とは、爆弾のスイッチを押すことのはずである。木の枠をたたんでいくことは、ブドリのしたことを示しているのではなく、物語上のブドリの行動の意味づけを示しているのではないか。折りたたまれた木の枠は、ブドリがクーボー博士の教室でみた、「歴史の歴史ということ」の模型に似ている。折りたたみおわると、ブドリはその中に入っていく。ブドリは、以前手帳に書き写した模型を、今度は死をもって自らが「歴史」となることで実践してみせたのだろう。
ブドリの死後、ネリとペンネン技師がブドリの死について話し合う。ブドリの死についての二人の意見のくいちがいには、クーボー博士の「歴史の歴史ということ」の説明が反映されていると考えられる。クーボー博士の「歴史の歴史ということ」の説明とは、「歴史」はみる方向によってまったく違う「歴史」になるというものであった。ブドリは特有の経験によって、人々を飢饉から救う物語上での唯一の人間となった。しかし、ブドリは、死をもってその自らの特別さを表現するのではなく、「歴史」の一部となり、人間の営みの繰り返しを守ることを願ったのだろう。ブドリの死がもたらしたのは、いつもより良い作柄でなく、「例年どおりの作柄」なのだ。