宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』。カタカナ部分が覚えにくいのは年のせいだろうか、漢字がバシッと決まっている『銀河鉄道の夜』の方が宮沢の作品としてはイメージしやすい。宮沢は、多々震災が絶えない郷土岩手で念仏を唱える母の背をゆり籠に、繰り返し地元を襲う冷害に打ちひしがれる農民たちを目の当たりにしながら育った。浄土真宗門徒であった父とは対立しながらも、自身は後に法華経へ傾斜していく。中でも「一乗妙法」という、法華経の教えがあれば万人成仏できる、という平等感は宮沢の「自身に執着しない」考えを育み、「久遠本仏」という、釈迦は永久の仏である、という法華経の一神教的側面は、宮沢の「『神』の手に委ねられた世界観」を醸成したのではないか(そしてこの点は後に、同じく一神教であるキリスト教への関心へと繋がる)。つまり『銀河鉄道の夜』でカムパネルラが語った、空腹のいたちに捕まらずに井戸へ落ちて生き延びた蝎の台詞に曰く、「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」という境地なのだろう。自身の命に執着せず、自身は『神』に使われる存在であるという人間観が窺える。
本作は主にブドリの6つの人生段階と4つの課題で構成されている。即ち、「飢餓」「養蚕」「農業」「学問」「就職」「殉死」の6段階であり、それらを貫く「生活」「夢」「使命」「信念」の課題である。ブドリは飢餓状態の中で当面の生活という課題に直面し、養蚕・農業という労働の中で生活を維持しながら「農家を助けたい」という夢を抱く。更なる知識を得るためにクーボー大博士の下で学問に勤しみ、「所属先」として火山局へ就職する。ここでブドリは夢の他に職務という自分の使命があることを知る。夢とは己が抱く希望だが、使命とは神の手による「配属」なのだ。「科学」という術を用いて火山噴火から市民を護るという使命である。窒素肥料を降らせて農民を救う、カルボナード島を噴火させて冷夏を回避するという試みは、ブドリの「農家を助けたい」という夢と使命が重なる瞬間でもある。その意味で、本作脚本にてブドリの夢が「農民になりたい」と訳されていた点は非常に残念だ。ブドリの夢は「農家を助けたい」であり、その夢と使命が重なる所に宮沢なりのカタルシスがあるのではなかったか。ブドリはこの時自分の信念と向き合い、そして殉死する。
舞台上で織りなされた世界観には素直に脱帽だった。特にオノマトペをベースにしたBGM演奏は、自身も作詞作曲していた宮沢賢治らしさやイーハトーヴの世界観がよく表現されていたと思う。台詞とのタイミングもとても効果的だった。またブドリ以外の人物を人形にした点も、まるでザ・プレミアムモルツの広告でモルツビールだけがカラーでその他がモノクロ表現されているように、ブドリがよく映えていた。
一方で根本的な問題だが、『グスコーブドリの伝記』の裏に脈々と流れる宮沢の思想まで脚本家と演出家は深く理解していたのだろうか。単に原作を脚本へ起こし、テクニカルになぞった感が私には拭えない。なぜブドリが命を賭したのか、全く伝わらなかった。あれではブドリが単なる英雄熱望者に成り下がってしまう。「誰にも言わないで」なんて自分で言った日にはOUTだ。これはおそらく飢餓段階の演出をかなり童話的にしてしまった故に、ブドリの飢餓時代の「血生臭さ」が表現できなかったからだろう。宮沢とブドリの原体験である飢餓時代を絵本のようにしてしまう事でまるで他人事になり、ブドリが命を懸ける決断への連続性が断たれてしまった。従って、ブドリが死を遂げる前に舞台装置の木の枠をゆっくりと折り畳んでいく場面では、ただお掃除をしているようにしか私には見えなかった。ブドリが畳んでいたのは、自分の人生ではなく、イーハトーヴの木の枠ですらなく、単なる静岡芸術劇場の舞台装置だった。
そしてネリが最後に別の子供を指して「ブドリに似ている」という宮沢の思想にとって非常に重要な場面だが、ここにこそ演出家のプロとしての「必殺技」が欲しかった。ここの台詞を大切に扱っている様子は見えたが、やはり単なるダイアログに終わってしまったのが非常に残念だ。本作の着地点は正にここにあり、ここに着地するための本作なのだ。マザーテレサ、キング牧師、ガンジー然り、世の英雄達は『神』によって英雄へ「配属」された。英雄は彼/彼女でなくてもよかった、でも英雄は必要だった。英雄はブドリでなくてもよかった、でも必要だった。ブドリは個人としては『ブドリ』であるが、『神』の前では等しい存在の『一人』なのだ。その『神』の下で、我々は名前と時を超えて繋がっている「連続性」があの台詞になり、「永久の未完成これ完成である」という宮沢の真理に結実する。
震災・冷害で苦しむ故郷の人々、川で命を亡くした同級生、そして病で早逝した最愛の妹とし子。法華経の教えと共に人への溢れんばかりの愛情を持っていた宮沢にとって、救えない者達への想いは如何ほどばかりだったか。『グスコーブドリの伝記』は、宮沢に英雄の力を与えぬ『神』に対する静かな怒声だったのかもしれない。