劇評講座

2016年2月10日

■準入選■【グスコーブドリの伝記】ドラマの力でブドリは蘇った 望月秋男さん

カテゴリー: 2015

 文学作品というものは、もともと書き終わるやいなや作者の手を放れ、読者の心の中に入り込むことで新しい生命(いのち)を育ませるものだ。
 そのことをまざまざと見せつけてくれたのが、今回のSPAC宮城聰演出の劇『グスコーブドリの伝記』だ。氏は宮澤賢治の童話を国民文学と位置付け、老若男女だれもが楽しめるドラマに仕立てあげたいと抱負を語っている。
 それで思い出したことがある。賢治は自分の作品を「少年小説」と呼んでいたらしい。少年たちのための小説という意味あいでもあるだろうが、私には書き手自身が少年になりきって創った小説のような気がしてならないのだ。
 現実生活においては数々の苦渋を舐めざるを得なかったが、執筆に当たっている時は全く違っていたのではないか。夢見る少年になりきって空想の世界を浮遊する瞬間ほど幸福なことはなかったにちがいない。著者が楽しくてならないのだから、その読者たちが喜ばないはずがない。
 オノマトペ(擬態語を含む)がいい例だ。『やまなし』の「クラムボンはかぷかぷわらったよ」とか『オツベルと象』の「グララアガア」など児童たちは声に出して狂喜する。私にしても『風の又三郎』の「どつどど どどうど どどうど どどう‥‥」の一節をこの歳になっても口ずさんでしまうほどだ。
 脚本の山崎ナオコーラさんも劇中、自前のオノマトペを頻繁に使って観客を笑わせてくれた。アホウ鳥の声やエエーンエーンなど実におもしろい。
 しかし、このファンタスティックな物語を生身の役者たちがどう演じてくれるか、正直気がかりだったが、人形芝居を取り入れることで愉快でユニークな舞台を創り出すことに成功している。布製の操り人形の顔の表情もマンガチックで、のんきな父さんタイプあり、デブッチョ女房ありで充分笑いを誘ってくれる。
 私はクーポー大博士の大ファン、月光仮面さながらに現れ、紅茶を飲みながら御高説を開陳すると、あっという間に気球に乗って空の彼方に消えてゆく、そのカッコよさにはすっかり魅せられてしまった。
 賢治は自分の伝記を遺すことはできなかった。あまりにも早過ぎた旅立ちだったからだ。しかし、この『グスコーブドリの伝記』を書くことで、理想とする人間の生き方を追体験することはできた。
 実際の賢治とブドリを比べてみよう。
 彼は花巻有数の資産家の長男として生まれた。宮城さんの句「親のスネ囓り通せし賢治かな」のとおりである。ところがブドリは貧しい樵の子。しかし、病弱な賢治と違って重労働に耐えられるだけの頑強な肉体の持ち主だ。
 それでは二人の共通点はないのか? 私は家族愛に注目したい。宮澤家の両親の子供に注ぐ慈しみの深さと妹トシへの兄妹愛はそのままブドリとネリ一家に反映されている。
 ただ飢饉のどん底に追い込められ父母はいとし子の食糧を残してやるためには自ら森の奥へと消えてゆく他ない。その上ネリは人さらいに連れ去られる。この悲劇性は当時の東北地方の現実の姿をありありと示している。人買いや、姥捨ては珍しいことではなかったのである。
 貧農の子ブドリは人々を凶作や飢えから救うためにはわが命を捧げてもいいと決心する。その根底には父母とネリへのせつないほどの想いがあることを賢治は宮澤家に重ねて描かずにはいられなかったのだろう。
 もう一つの共通点は学問への情熱。特に科学の力をもって人々のために役立とうという志は大きい。敬仰するクーポー大博士との出会いは一気にその実現へと向かわせる。
 博士は一見すると荒唐無稽のほら吹きととられそうだが、実は地震学や地質学の成果をふまえていることがわかる。つまり、昭和初期にこの火山列島の未来を予見し、その方策を賢治は考えていたということになる。
 劇中、しばしば繰り返される「サイエンス・フィクションだから、どんなことも可能になる‥‥」という科白はなにを暗示しているのか? 想像力の翼を羽撃かすことなしに未来への展望を切り拓くことはできないことを訴えているのではないだろうか。
 クライマックスは、火山局技師となったブドリが独りカルボナード島に残り、最後の機器の点検操作を続ける場面だ。主人公ブドリ役の美加理さんは女性ながら、いや女性だからこそ凛々しい若者像をみごとに演じきってくれた。
それだけではない。ここに至ってアンサンブルの一糸乱れぬ集中力を結実させた演出の妙には舌を巻くしかない。裏方の底力というものなのだろう。
 たくさんのパイプをつなぎ合わせた移動式の舞台装置の真価が今こそ明らかになってゆく。黒子役の白い更紗を纏った群像がこんなにも万能ぶりを発揮しようとは! 開いたり閉じたり、畳まれたり、回転・移動が沈黙裡に進行してゆく。いつの間にやら観客はブドリの一挙手一投足に釘付けにされ、固唾を飲んで見守るばかりだ。どれだけの時が経過したろう? 打楽器だけが胸の鼓動を増幅させるようにこの耳に届く。
 いよいよブドリの最期が来るか‥‥大爆発? いや、舞台の上も観客席もコトリともしない空白の一瞬間! ブドリは自らの命を捧げ、ネリたち農民を救う大事をついに果たしたのだ。舞台におけるインスタレーションとはいちばん肝心な時に観客の眼に焼きつけさせればいいのだ! 感動の潮が迫ってきたのだろう。私はいつの間にか熱い視線を中央の上方に掲げられている、あの賢治自作の「日輪と山」に注いでいた。そして思った。もう一度自分の心であの重い言葉の意味を噛みしめよう。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」