「ハムレット」の舞台を初めて見たのは、2001年蜷川幸雄演出・市村正親主演の公演だった。その時の印象が強烈だったので、他の人のハムレットを見る気がしなくて、ハムレットから遠退いていた。今回の「ハムレット」は、14年ぶりの観劇である。
最初はどんなストーリーだったかもあやふやだった。しかし、見ているうちに、こういう内容だったのか?と新たな作品を見るような新鮮さがあった。そして、14年前には気づかなかったことに気付ける自分があった。
まず、頭に浮かんだのは、“「ハムレット」は歌舞伎である”ということだ。シェイクスピアの世界は、西洋の歌舞伎である。狂人のふりをするハムレットに、同じく阿呆の振りをする「一條大蔵譚」の一條大蔵長成が結びついた。敵の城に居乍(いなが)らにして、クローディアスへの復讐を望むハムレットと同じく平家一門の目を欺き、源氏再興を願う長成の状況が実に似ている。
最後のホレーシオを生き証人として残すシーンは、「忠臣蔵」の寺坂吉右衛門そのものである。彼もまた、討ち入りの子細を報告するように大石内蔵助から命じられ、生き残ることとなった。
24年前、東京グローブ座で「葉武列土倭錦絵」という歌舞伎版ハムレットが上演されたそうだ。今再演されれば、ぜひ見てみたいと思う。
プロローグからのハムレットのビー玉遊びの場面、その後のビー玉(銀球)の持つ意味は何だろう?と考えてみた。もしかしたら、あの銀球はハムレットの心理状態の象徴(モチーフ)かもしれない。カチカチと不安な心理で始まり、手から離れて狂人となり、下手前方に転がすことにより、本心を取り戻す。
そして劇中劇(仮面劇)がコンパクトでインパクトの強いものであった。特に仮面の使い方が上手い。能面のようだけど能面でなく、アジアのどこかの国でありそうな仮面だった。白顔から大きい白顔へ、そして毒を耳から注がれ灰色顔へ。そして死となる。王妃を誘惑し、王冠を手にする。実にわかり易い流れだ。旅芸人の七名の雰囲気は、七福神のような感じに見えた。
裸電球が一つ、舞台天井から下りてくる。ハムレットがその電球に触れる。まるで、真実を告白する前触れのようだ。ガートルードに真実を語る。計算された照明効果だった。
前半は、特に台詞も親しみ易く、動きもユニークに感じた。後半がシリアスな分、それを強調するためだったのではないだろうか?
ハムレットの台詞で印象的なものが多々あった。前半初めの「天翔る想像力よりも、恋の思いよりもはやい翼をつけて、復讐へと飛んで行きます」の「天翔る」が、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の「天翔る心、それが私だ」の台詞と繋がった。この“天翔る”は、元々万葉集で使われた言葉だそうだ。言葉は、国も時代も越えてしまう。
次に「役者とは時代の縮図、生きた年代記だ」は、いつの時代にも通用する気がする。今のこの不安定な社会情勢だからこそ、このハムレットの台詞が余計真実味をもって感じる。
そして有名な「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」この台詞は奥深く、いろんな要素を含んでいる。私のような未熟者でも、絶えず口にしていそうな言葉である。人は、いつも何かしら悩みを抱え生きている。どんな些細な事でも、厖大な事でも、人によって悩む要素は違っても、悩みのない人はいないだろう。本当はオフィーリアのことを愛していながら「尼寺へ行くがいい。罪深い子の母となったところでなんになる?」と言うハムレットは、どんなにつらかっただろうか?聞かされるオフィーリアもつらかっただろうが、人に別れを宣告することはつらいことなのだ。戦時中の赤紙の冷酷さが重なってみえる。
後半の「このような堕落しきったいまの世のなかでは、正義が不正に許しを乞い、不正をただすにも頭を下げて許可を求めねばならぬようだ」は、現代社会と恐ろしくマッチする。頭をさげなかったから殺されてしまった命を、私たちはどう受け止め、どう行動していけばいいのだろうか?世界の中の日本、日本の中の子ども社会、大人社会。考えさせられる台詞である。
戦後70年、何が変わり、何が変わっていないのか?日本は、ハーシーチョコレートと一緒に、米軍基地、日米安保、原発まで落とされてしまったのではないだろうか?独立した平和な社会に、国民一人一人が安心して暮らせる社会に本当に必要なものって何だろうか?
演劇は社会の鏡であるならば、今の社会にシェイクスピア作品は必要な作品で、英国よりもむしろ、日本で上演されるべき台詞の数々が集められた作品であるように思われる。