劇評講座

2016年2月13日

■優秀賞■【盲点たち】森麻奈美さん

 避難所の光景のようだった。

 稽古場棟の一階で受付をし、普段こんなに大勢の「お客さん」を迎え入れたことがないと思われる稽古場のお手洗いに並ぶ。二階へ行くと、広い円形の体育館のような場にたくさんの人がばらばらに座り、「森の中は寒いので」とスタッフに渡されたレジャー座布団をしいている。真ん中には物販の机があり、そこでは飲み物も配っていた。そのような光景は、「避難所のよう」としか思えなかった。

 そこでしばらく待機ののち、スタッフによる作品の説明と注意事項、誘導がはじまる。
 しかしこの注意事項が既に「飲食禁止」「撮影はご遠慮を」などの生ぬるい通常範囲のものではない。着席の仕方の説明(なにせ会場は明かりのない暗い森の中である)や「道は真ん中を歩くこと」という会場までの注意(暗くて見えないが崖や穴があるから、とのこと)など、緊張が走るものが含まれる。
 「では移動します」と言われぞろぞろと観客たちは動く。負荷をかけられることを嫌う観客がみたら文句を言いかねない光景であり、そもそもまだ「開演」していないし「劇場」に到着もしていないのだ。しかし未知のものへの好機と避難訓練的緊迫感(どれほど注意事項が異常であろうと避難所的空間であろうと、すべて彼らの演出範囲内である以上、避難訓練がそうであるように私たちは安全だ)に対する高揚で、既に観客は楽しんでおり、指示に不満もなく暗闇の中整列し、進んだ。
 先導するスタッフは懐中電灯を地に向けて照らしながら歩いていた。それがランタンのようで、私たち十二人どころでない「盲点たち」を森へ連れていく「老人」に重なる。私たちはこの人についていくしかその場所へ行けず、また本当にこの人がその「連れて行ってくれる人」なのか知らないのについていく盲目の群衆だ。また、実際には若い男性であることが私には「見えて」いるが、果たして『盲点たち』の盲者たちが老人と思っていた人は老人だったのだろうか―。あまりにも心もとない状態に、「自分は盲目である」を立脚点としてすべてを疑ってかかる時間があった。
 やがて会場に着き、白く浮かび上がる椅子に座る。どことなく不安なまま、素早く席に着き、開演を待つ。
 突如、思いもよらぬ場所―私は崖のロープにぴったり背中をつけているのに、その私よりも後ろから声があがる。開演したのだ。どこだどこだと探すも虚しい―が、思ったより、見える。正直落胆する自分がいた。私は見る力があってもなお登場人物とフェアになれる体験を望んでいたようだ。見えるじゃないか、と落胆し、しばらくは見えないふりをしたまま見ないか、見えるとこまで見てやろうか迷った。
耳を澄まし、鼻をきかせる。
 野生に溶け込むような大いなる劇場の中で、クライマックスに向かい盲人の徘徊は増す。観客席に座る人間に手触りながら、人間がかたちづくる迷路をさ迷う。
 私は、見えている―
 しかし本当に見えているか。
 見ようと目を凝らせば凝らすほど、見えないことを自覚せざるを得ない。「美しい若い盲の女」が美しげな台詞でゆっくり進むとき目をこらし彼女の顔を読みとこうとしたが、表情はおろか、顔のパーツの存在すら確認できない。顔の輪郭は知覚できても、その内側はグレーののっぺらぼうなのだ。見たいと思えば思うほど、自身の盲ぶりを自覚せざるを得ず、またこの状態で席もたたず一言も発さず臨席していることは、比喩的に相当盲目であった。

 暗闇の中で、さらに俳優たちが私たち観客の内側にいたので、恐怖の伝染はあった。普通の劇場での「恐怖の感情を受け取る」なんて生易しいものではなく、伝染―あるいは感染だったと思う。
私たちには彼らの恐怖が、パニックが感染した。それなのに私たちはただひたすら黙って定位置の椅子に座り続ける。彼らが見えなくて、私たちはまだ見えているのに。
 私たちは「自分は絶対安全」と思い彼らを放置する「群盲」にすりかえられていたのではないか。
 今回、メーテルリンクの「Les Aveugles」、通常日本では「群盲」と訳されるこの作品を、あえて「盲点たち」という翻訳で上演している。
 たしかに、この作品が描いているのはひとまとまりの群れの盲目ではない。「群盲」の話のようで実は「複数の群盲」があった。
 「誰かが困っている自分たちを見つけてくれるから助かる」という淡い期待を、彼ら自身が打ち消していくではないか。灯台守は海しか見ないから、自分たちを見つけてはくれない―シスターは夜出掛けないから、自分たちを見つけてはくれない―と。
 彼らひとつひとつの塊は、自分の世界しか見ない「群盲」である。
そして、盲人たちはその「群盲」に見落とされる・見つけてもらえない「盲点」たちなのだ。
 このことが上演とテキストとタイトルで繋がった時に、とてつもないパラドックスを感じ、震えた。
 盲人たちは「見えない」群盲なのか、「見つけてもらえない」盲点なのか。
 いずれにしても、自分の世界に閉じこもる「群盲」たちの織りなす世界であったのだろう。集合から開演までといい恐怖の伝染の仕方といい、かなりのストレッサー演劇に感じたが、しかしこれは確かに私たち社会の姿であった。

 上演の後、帰るためのバスに乗る直前、山の頂近くが異様に明るくて、観客たちが「あそこめちゃくちゃ明るい」「なんだろう」「火事?」などと口々に言っていた。しかし少し進むと丸い大きな月が出てきて、月があんなにも明るいことに驚く声でその場がざわめいた。

 私たちは、便利な世の中に月の明るさも見失うほど、盲目だったのだろう。
 避難所のような「集合」に始まるストレッサー演劇は、最後に私たちが「盲点たち」であることを、静かに美しく告発してくれた。