劇評講座

2016年2月13日

■最優秀賞■【小町風伝】西史夏さん

 「エロって、男と女で随分感覚が違うんだな~」、と改めて思ったのがろくでなし子さん事件。“デコまん”とか“マンボート”とか全然エロくないし、まあ1回目に捕まった理由は自分の性器の3Dデータ配布だった訳だから、“デコまん”と“マンボート”の猥褻性は関係ないのかもしれないけれど、でもやっぱり女性器それ自体がエロ(猥褻)かっていうとそうじゃないと私は思う。
 <いやよ、交尾をするのはいや。あんなのはつまらないわ。もっと恥ずかしいことがいいの。>この台詞を聞いたとき、私、ビクンと反応しちゃった。そうよ、もっと恥ずかしいことはいっぱいあるはず。入れて出すだけなんてつまらない。そんな限定された行為に女として自分のエロスを服従なんかさせたくない。
 小町の空想は女のマスターベーションだ。絶対的家長が支配する隣家の息子に対し、<あの子、いいわ…>と欲情する。老婆の官能は、父親から息子が理不尽に打ちのめされている時にはもう、そばだてた耳元が感じ取る彼の凍った唇で既に高まっている。凍えた唇…それは服従を強いられ怖れに震える唇のことかもしれない。その唇を小町は知っているから、やわらかく温めてやりたいと欲するのか。自らの肉体を使って怖れから小鳥のように解き放ってやりたいと望むのか。
 ロシアンスープで始まる16歳の小町の記憶のスタートを日露戦争が開戦した1894年だとすると、『小町風伝』初演の1977年当時小町は89歳。だがそれより前の日清戦争をスタートにすると、99歳となる。まさに「百歳に一歳足らぬ九十九髪」である。戦争景気をあてこんで女郎屋にひき連れられた女たちが日本から大挙して南満州へ乗り込んでいった頃、小町はリクエストした『バラ色の人生』を聞きながら少尉に口説かれていた。『La Vie en rose』は1946年の曲なので、<お嬢様、それはずっとのちの世の…>と、注意されることになるが…。日清戦争から始まり朝鮮半島を含む東アジア全体を泥のように巻き込んでゆく戦争は、暴力的に女たちの性を支配していった。女郎屋の女が従軍慰安婦になりかわってゆくのにさほど時間はかからなかった。男たちに凌辱されながら、慰安婦の女は<いやよ、交尾をするのはいや。あんなのはつまらないわ。もっと恥ずかしいことがいいの。>などとは言えなかった筈だ。
 鱗粉を撒き散らし乱舞する小町のエロスは、だからこそ無言劇として表現されたのかもしれない。小町の肉体こそが、抑圧された女の性の歴史に抵抗する自由な<存在>そのものであり、加害と被害のどちらもを背負っているのだ。
 イ・ユンテクの演出では、現代の若い女性が戯曲『小町風伝』のページを読む行為からはじまる。それは作者太田省吾へのオマージュであると共に、小町という一人の女性を通して父権主義の暴力に荒らされた東アジアの歴史を振り返り、確かめてゆく行為であることを示唆していたと私は感じ取る。『小町風伝』初演の1977年から38年が過ぎた。もはや私たちはただ肉体から、ただ無言から、昭和史を背負う小町の悲哀と可笑しみを読み取れないほど遠い場所へ来てしまった。忘却は時代を巻き戻し、“デコまん”やら“マンボート”やらを取り締まるほど女の性を再び一辺倒に支配しようとしている。それは日本の社会がまだ、男の性を中心に動いているという証拠なのだろう。
 <なにもかもなくなる>という小町の台詞を上演で見つけた時、『更地』の中で印象的に使われていた<なにもかもなくしてみる>という言葉が、既にこの無言劇のなかで重要な役割を占めていた事に驚いた。―生命的存在としての意味を問おうとする時には、その社会の枠をなくしてみなくてはならない―と、太田省吾は書き残している。イ・ユンテクの『小町風伝』は、2時間かけて女のエロスの極みへ私たちを誘ってゆく。隣家の息子との逢瀬も尽きて、四畳半から布団、襖、タンス…社会の枠の何もかもがなくなったとき、小町のエロスは生命的存在として宇宙へと解き放たれてゆく。その後、イ・ユンテクが書き足したシーンが面白い。<なにもかもなくした>四畳半の玄関から、襤褸の十二単を脱ぎ、こざっぱりとした旅行服に着替えた小町が現れる。小町は表札を外すと、旅路へ急ぐ。舞台の背景が大きく開き、日本平の緑と午後の生々しい日差しが現れる。ありふれた光の中へ、日常の空気の中へと小町は消えて行き、幕となる。
 高く飛翔した筈の老婆が解き放たれた宇宙、それは日常の中にもあるという演出家からのメッセージは、<今、ここに生きていることの意味>を私たちに問いかけてくる。
 カーテンコールでは3人の小町が並んだ。老婆の小町、16歳の小町、朗読する女性…彼女もまた小町である。私たちは歴史を飲み込んだまま何度も滅び、そして甦る。<今、ここに生きていることの意味>を、私は朗読する女性の姿に再び見つける。そして自分自身に厳しく問い直す。『小町風伝』が紐解いた昭和史の、例えばラジオ体操の全体主義を、隣家の徹底的な家父長制を、家庭という檻を飛び出した老婆小町のアイロニーを、笑い倒す力が私にあるのか。日常をじわじわと侵してくる社会が織りなす枠組の抑圧に、無言のまま従属してはいまいかと。