劇評講座

2016年2月13日

■入選■【ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む】横山也寸志さん

 久しぶりにアングラ演劇を観た気がする。70年代後半に大学生であった私にとって、演劇は唐十郎に代表される、アングラに他ならなかった。「ふたりの女」は舞台で見たことはなかったが、ラジオドラマで、「恋の鞘当て」(「六号室―源氏物語『葵』」)として、この作品の原型を聴いた。緑魔子のアンニュイなしゃべり口調が今でも耳に残っている。だから、今回の劇を見ていても最初は、それが邪魔をして、目の前の女優さんのセリフに入り込めなかった。しかし、場面が進むに従って、違和感がなくなり引き込まれていった。
 アングラとはなにか。新宿梁山泊の劇を見ても、それは感じない。なぜであろうか。「吸血鬼」「ベンガルの虎」「風の又三郎」と、懐かしい唐の作品のリメイクというか、そのままの世界は、ノスタルジーを満足させても、あの頃アングラ演劇の持っていた刺激的なものを感じさせない。あまりにそのまま過ぎて、李礼仙はそんな風にしゃべらないとか、根津甚八雰囲気とは違うとか思ってしまう。きれいな舞台で上演される、蜷川幸雄の「盲導犬」なども同じだ。テントでやればアングラというわけでもなく、あの頃のセリフをそのまましゃべればアングラというわけでもなさそうだ。アングラの持つ刺激、それは非日常の狂気と日常からの解放。唐のよく言う、幼い頃のサーカス小屋の持っていた、何が起こるか分からない恐怖、いかがわしさ、しかし、怖い物見たさとも言うべき、日常の私を揺り動かす得体の知れない何物か。
 今回、舞台芸術公園野外劇場「有度」で見た「ふたりの女」は、そんなものを感じさせた。
 まず、舞台がとてもいい。観客席から見下ろすコンクリートの平面の舞台、そのバックに廃材を組んだ舞台装置の上、さらに奥の森の木の上、という三層構造。薄暮から、暗闇へと自然の変化で闇の世界へ飲み込まれていく。テントが開くと、不忍池だったり上野公園の森であったり、という、当時としては刺激的だった赤テントの世界に匹敵、いやそれ以上かもしれない。
 唐は、源氏物語の六条の御息所の生き霊の話から着想を得て、全然違う物語を作ってしまった。6号室の患者が、病院の医師の、その妻に乗り移ってしまう話である。そこには原作の持つ怨恨、愛人の正妻に対する嫉妬、というようなものは感じられない。たまたま関わった、男の妻の人生を乗っ取ってしまう話である。そこには、あの当時唐がよく書いていた。「言ったことが本当になる」「人の履歴を乗っ取ってしまう」というモチーフがある。
 車争いにしても、原作では、そこで、葵上の従者に辱められた六条御息所が、ますます嫉妬をつのらせ、ついに生き霊となり葵上を死に至らしめる原因となっているのだが、「ふたりの女」では、そんな深刻な因果関係はなさそうに見える。鍵の受け渡しが、妄想のような患者のたわごとが現実になっていくさいの鍵の一つになっているに過ぎない。
 さしずめ、「世にも奇妙な物語」のような怪談。人生を乗っ取ってしまわれる恐怖。しかし、それだけではなく、何とも言えない解放感があるのも確かだ。
 この皮膚に覆われた、私が私で、私は私、あなたはあなたという、近代的自我、そんなものを易々と飛び越えてしまう開放感がある。極小のアリやのみや砂となれば、どれがどれだか分からず、あなたの履歴も私のものかも知れず、私の過去をあなたが生きるかもしれない。そんな狂気がまっとうに思えるのは、あまりに截然と分けられたあなたと私がいて、踏み込まない、踏み込ませない自我という壁がありながら、その内部はとても貧困で、空気を読んで合わせているだけの私がいるから。
 最後近く絡み合う、光一と六条の姿は、憎しみ合っているようにも、愛し合っているようにも見えた。忘れてしまった一体感を感じた。そして、闇の中に、背景の森とも一つに融け合った舞台、さらには観客席の一体感をも感じた。それは、約40年前、都会のテントで感じた一体感、暴力的に踏み込んでくる唐の芝居のあの感じに似たものであった。
 ああ、これがアングラ劇というものだったのだ。