劇評講座

2016年2月13日

■入選■【ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む】宮城聰のオルタナティブとしての『ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』 番場寛さん

驚いたのは冒頭の影絵に映った男女がロックに合わせてコンテンポラリーダンスを踊る姿やスケートボードに乗って失踪するコメディアン風の人物でカーレースを表したりするなど極めて現代風の演出から入っているにも拘わらず、宮城が、紛れもなく唐十郎の作品の魅力の本質的な部分を再現していたことだ。俳優の言葉は、語り手の無意識から言葉のシニフィアン(音声的特徴)を梃子にまるで自由連想のように紡ぎ出される。それは同事に流される甘ったるいメロドラマ風の音楽に助けられ、非論理的なのに観客の心に届く。シリアスな場面に幕間狂言のように突如現れ観客から「カラー」というかけ声を浴びる場面まで、宮城は自身が出演することで会場から爆笑を得ることで再現していた。
 唐十郎の『ふたりの女』は過去の『葵上』と比べてより複雑になっている。六条は精神科医光一の勤務する病院の患者として彼と出会い、恋愛関係はなかったのに妄想の世界で彼を愛し、愛されていると思っている。光一の妻のアオイと六条の関係は互いに光一の愛を占有しようとするライバルでありながら、現実にであれ、妄想の世界であれ、光一への想いの強さからか、互いに同一化する様が不気味である。その同一化は六条が光一を通じてアオイの顔につけさせることになる髪油の匂いによって身体的になされる。アオイの身体が、六条に成り代わったり、自分自身に戻ったりするのは、光一から奪った六条の鍵であり、その鍵を握りしめることが変身のスイッチの働きをしている。
 そして三島由起夫版では、嫉妬心と憎悪を抱くのはもっぱら六条であるのに対し、この作品では、六条だけでなくアオイも相手を嫉妬している。三島版では、六条の嫉妬心の権化ともいうべき生き霊が、現実の六条から遊離して活動するという不気味さがあったのに対し、唐版では互いの嫉妬心が髪油という媒介により相手への同一化という変身をとげる。六条は光一に対する恋愛妄想を抱きながらも、精神病院に入りそこを短期間で退院するなど実際は狂気を装えるほどの正常さを持っている。
 突然嫉妬心を露わにして六条に変身して言葉を発するのはアオイの方であり、宮城版で新緑に覆われた櫓の高見から身を投げ自殺する瞬間はアオイが正常であることを示している。
 劇を観た直後、ある観客が「この時代はみんな精神病院が好きなのよ」と連れに話していたが、確かに小劇場全盛の時代において唐十郎だけでなく、鈴木忠も、安部公房も精神病院を場所として舞台作品を演出していた。なぜこれほど精神病院を舞台とした作品が作られたのであろうか? この時代における他の劇作家同様、唐も、宮城も、どうして舞台として精神病院を選んだのだろう? 精神病院を舞台とすることで、荒唐無稽な会話を展開しながら同時にそれは患者の言葉だというリアリティを担保することができるからだと思われる。落とし前だと言ってすべての指を切り落としても11本目の指を求め、自らの股間に火をつける男や、自分を陽炎のような死者だと感じていると語り、最後には目に見えない男に肩を貸して歩いて行く駐車場係員は、二人の女の葛藤には直接的には関係ないのにどうして挿入されているのであろう? そうした妄想に生きる人々は、第三者には孤独の極地の姿と感じられるからであり、六条の「恋愛妄想」も、それを拒みきれない光一も、嫉妬のあまり六条に同一化してしまうアオイの妄想も、その流れで観客に受けとめられる。
 宮城はオルタナティブを「空気を読まない」と訳してみることを主張しているが、宮城ほどいい意味で時代の空気を読んでいる演出家はいないと思う。「ク・ナウカ」で前衛性を打ち出し、今大劇場の総支配人になっても変わってないのは、演劇界のみならず時代の変化を極めて敏感に読み取って自分の演劇活動を行う点である。「空気を読まない」というのは、「抑圧された表象内容もしくは思考内容は、それが否定され得るという条件のもとで意識に到達できる。否定は、抑圧されたものを知る一つの方法であり、実際、抑圧の一種の解除なのである(*)」とフロイトの言う「否定」にあたるだろう。初演の年前と今回再上演した2015年において、宮城が「空気を読まない」と宣言するほど読んでいるその時代の空気とは何であろう?
 昔憧れていた小劇場演劇ではなく、自身大劇場の支配人として大観客数の規模での上演をも視野に入れなければならなくなった時、少人数の観客を相手に演じれば良い小劇場の演劇のテーマは独りよがりにも思えたかのかもしれない。それと同事に彼にはそれ以上に小劇場に対する愛着も残っていたのであろう。
 『メフィストと呼ばれた男』の自身による解説にも書いているが、時代を導く前衛でありながら、一人でも多くの大衆にも理解されるものを作るべきだというアンビバレンスは、そのまま、自分は、今は妻となるアオイを愛しているのであり、自分を「あなた」と呼ぶ六条の愛は妄想なのだと想いながらもそれを断ち切ることのできない光一の姿と重なる。それは、「あれでもないし、これでもない」というオルタナティブではなく、「あれも、これも」というオルタナティブである。自分がかつて愛し憧れてもいたが否定し、乗り越えようとしている小劇場への想いは、愛しながらも憎み、抱きしめながら首を絞める光一の姿そのものである。彼の頭に六条の掌から振りそそぐ愛の言葉の砂はまさに宮城のオルタナティブの意識の権化である。(2015年5月16日執筆)

*フロイト「否定」、岩波書店『フロイト全集19』所収、4頁。