劇評講座

2016年2月13日

■入選■【『メフィストと呼ばれた男』&『天使バビロンに来たる』】『天使バビロンに来たる』と『メフィストと呼ばれた男』を観ながら別の劇のことを想う 番場寛さん

 舞台中央に据えられたクッションの効いたいつもの座席ではなく、舞台横に臨時に置かれた椅子に観客がつかされるときから『メフィストと呼ばれた男』という劇はすでに始まっていた。
 歴史の波に飲み込まれてナチス政権下で演じる俳優たちの苦悩を描いたこの作品の設定では、客が一人も入っていない客席が必要だった。
 「抵抗と服従の狭間で-「政治の季節」の演劇-」というシンポジウムで説明されている、決して自らはナチスを支持している訳でもなく、またドイツがソ連軍によって解放されてからも共産主義を支持している訳でもなくただひたすら芸術と国民を愛し、仲間を救いたいとだけ思って現実との妥協点を探りながら生き抜いているうちにいつの間にか政権に荷担してしまう主人公の置かれた状況は、戦争の危機が叫ばれているこの日本の現状においても極めてリアルである。
 しかし、今回の上演の素晴らしさは、そういったテーマの背後にある、「演じるということは何なのか?」といった根本的な問題を白眉のものと見せてくれたことにあるのだと思う。
 劇中の練習の台詞として発せられる数多くの古典劇の役の演技は、彼らが一流の俳優であることを納得させるものであり、彼らは「一流の俳優を演じている」のである。劇団の主演女優であったレベッカがユダヤ人であるため亡命した後、ナチスの宣伝大臣が送り込んだ愛人の女優が、コメディかと思わせる程棒読みの下手な台詞まわしを演じて、対照的にレベッカを初めとする劇団の俳優の巧みさを際立たせている。 
 客がお金を払って見に来てくれることで成り立っている劇は芸術であると同時に娯楽でもあり、ましてや国民から集められた税金の一部が補助金として劇の上演のために与えられているとしたなら、その作品は宣伝大臣の言うように、国家と国民に奉仕すべき作品として上演されなければならないであろう。この理屈で自らを納得させていったことで「みんな腐っている」と内心で思いながらも、結果的に政権に荷担してしまうことになるクルトのどこが間違っているのであろう?
 不思議なことに、その前に観た『天使バビロンに来たる』とこの劇作品とが同じ問題を扱っているように見えてしまった。それは「制度と経済に支配された我々は人生を“美”によって再構築できるのか?」と中島諒人自身が書いているように、天使によってバビロンにもたらされた少女が「美の象徴」であり、それによっては劇の結末が示すように世の中を救うことはできないのだという終わり方を示していることと呼応するからだ。
 『天使バビロン・・・』では、主要な登場人物が役を転換する。乞食は物乞いをした罪で死刑になるところを、機転を利かせて死刑執行人に成り代わる。そうした人物がはらんでいる二重性が劇の中で最大限の効果を上げているのが、最初天使が連れてきた少女が恋した乞食が実は王が「演じた」乞食であったという事実である。
 この劇の魅力は、人物が役割を突如反転させることで、「演じることのリアリティ」を目の当たりにできるという点で、演劇そのものに観客が抱く期待、つまり目の前の人物はその人でありながら別の人物を「演じているのだ」というリアリティを得ることができるという点にある。 
 観客は、商人や軍人などの登場人物を表した粗末な人形を、想像力でそれが台詞を言っている登場人物とみなすとき、「演じることのリアリティ」に荷担することで劇に参加する。
 実は、今回の二つの劇を観ながら、それらとまったく異なった劇作品とその演出家のことを思った。それは今年生誕100周年を迎えたポーランドのタデウシュ・カントルのことである。彼はドイツ占領下、地下劇場で劇を造り、スターリン時代にも社会主義リアリズムの押しつけに反抗して活動を続けた。
 1982年に東京で彼の『死の教室』を観たときの衝撃から、以後その作品が舞台芸術作品を観るときの感動の尺度になっている。
 自らの幼年時代の分身である人形を担いだり抱えたりして音楽にのって、まるで夢遊病者か死者のように歩く姿はそれを観た者には、言葉なしの絶対的な表象であり、これが世の人の役に立つか観客に寄与するかどうかという問い自体を立てるのも忘れさせるほど強烈なものであった。
 これから死に向かおうとしているか、あるいは既に死んでいる老人たちが、自分の身体に自分の過去の分身を背負っている様は、人生における「死」と「生」を同時に身にまとっている人間の本質、普段は見ないですんでいる真理を目の前に突きつける「出来事としての演劇」であった。『天使バビロン・・・』の新聞紙で作られた素朴な人形の使い方とあまりに異なっていた。
 4月18日の「カントル研究会」で聞いた、演出家のロジャー・パルバース氏が生前のカントル自身から聞いたという話が思い出される。古代に人が集まり集団が出来るとその中心に入って何かを演ずる人間が生まれた。しかしこれが演劇の発生ではない。演劇が生まれたのは、その集団に背を向けて、そこから出て行った男が何かをした瞬間だとカントルは語ったそうだ。
 多くの演劇公演が入場料以外の公的機関からの補助金によって成り立っており、より客が求めているものを上演することが要請されている現状は、まさに二つの劇作品のテーマそのものである。そうした状況において、カントルの行ったことを振り返るとき、ひょっとして観客が求めているのは、「演じることのリアリティ」そのものを転覆させてくれる劇作品なのかもしれないと思った。