劇評講座

2016年2月13日

■講評■ SPAC文芸部 大岡淳

 今回寄せられた劇評はいずれもレベルが高く、(1)舞台上の表象を含めて作品の内容を読者に紹介し、(2)独自の視点で評価を下すという劇評の基本は、大半の投稿がクリアしていたと思います。ただ、(1)の紹介に多くの字数を割いてしまい、(2)の批評が手薄になってしまった投稿が多かったことが気になりました。作品を介して何かを言い当てようとしているのだが、もうひとつ手が届かない感じを、なんとか乗り越えていただきたいというのが、全体的な印象です。

 『メフィストと呼ばれた男』劇評は、いずれもこの芝居の主題(芸術家のナチズムへの迎合)を正確に捉えており好感が持てましたが、劇作家なり演出家なりが既に用意したメッセージを反復するだけで終わっているものが多い点は残念でした。その中では樫田那美紀さんが、「空気を読まない」という空気を読んでしまうパラドックスに言及しておられる点が、非常に面白かったです。できればここからもう一歩進めて、ファシズムを肯定するか否定するかという、舞台が描くテーマの如何に関わらず、そもそも「舞台に喝采する」という姿勢そのものがファシズム的なのではないか、という問いを立ててみてはどうだろうと感じました。
 『天使バビロンに来たる』も『メフィスト』と同様、劇作家・演出家の意図を超えた視点に出会えなかったことが残念でした。やはり、『メフィスト』や『バビロン』のような重厚な作品は、まずは作品世界をしっかり理解するだけで労力を要するため、オリジナルな視点を持ち込んで批評するのが難しかったのかなと思います。

 逆に、『例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする』は観客が街中に、『盲点たち』は観客が森に、実際に足を踏み入れるという「参加型」要素を含んでいたため、同じ体験をしても感じたこと考えたことは各人で異なっているから、オリジナルな視点を打ち出しやすかったようです。ただこれらの作品を扱った投稿は、単に“体験”を記述するだけで終わってしまい、批評に至らず感想の域にとどまったものが多かったと感じました。森有正を真似て言えば、“体験”を客観化し“経験”へと深化させることで、感想から批評への飛躍がなされるのだろうと思います。
 そういう中で、『例えば朝9時』の投稿では、番場寛さんの「文脈の転換は起こらなかった」という指摘、西史夏さんの「演劇はそこで……圧倒的な日常に負け続けていた」という指摘にハッとさせられました。また『盲点たち』では、「群盲を取り巻く我々もまた群盲である」という森麻奈美さんの視点が、圧巻だと感じました。

 『ふたりの女』は、唐戯曲の謎めいた物語と、宮城演出が施した解釈とを読み解かねばならず、決して容易な作業ではなかったと思うのですが、皆さん健闘しておられるという印象を持ちました。ただ残念ながら、やはり解読するだけで終わってしまった投稿が多かったと感じます。特に横山也寸志さんの「近代的自我を易々と飛び越えてしまう開放感」こそが「アングラ」なのだという指摘は、作品に即して語られた総括であるだけに、説得力があると感じました。
 『聖★腹話術学園』の投稿もまた、劇作家ホドロフスキーの創り上げた世界観を解読した点は皆さん見事でしたが、『ふたりの女』と同様、そこから先に議論が及んでいないという印象を持ちました。あの終幕は、自分は人形を操作する人間だと思い込んでいた主人公が、実は自分もまた操作される人形に過ぎなかったことを知る、という意味だと思います。この終幕のメッセージにきちんと言及できていない投稿が多かったのも気になりました。このようなテーマは、リドリー・スコット監督『ブレードランナー』をはじめとして、様々なSF小説やSF映画が既に扱ってきたものです。演劇でも、80年代に生田萬氏や川村毅氏が好んで扱いました。そもそもホドロフスキーは映画人ですし、様々なサブカルチャーを参照して、脱領域的に独自の批評を構築する柔軟さがほしいところです。
 『小町風伝』も、太田省吾の戯曲をイ・ユンテクが演出するという複雑なしかけと相俟って、重層的な世界観を構築している作品ですが、投稿はいずれも、この世界観を精緻に解読できていたと思います。その中でも、小町の幻想を「女のマスターベーション」と喝破し、終始一貫して女性性という観点から解釈を施し、最後に男権主義批判という今日的テーマに差し戻した西史夏さんは、大岡個人としては、今回寄せられた投稿の中で文句なくトップに位置する批評であると感じました。

 『觀』のような静謐で硬質な舞踊作品を言葉で説明するのも容易ならざる作業だと思いますが、これも皆さん自分なりの表現を工夫して、健闘されたと思います。その中では、このように儀式的な舞台をどう観客が受けとめるかという問いに対して、どのみち観客は「生存競争の中へ帰らなければならない」のだから、「儀式の訳も意味も忘れ切って初めて純粋に芸術としての真価が示される」という解釈に与して、「その芸術は地球ときっぱり別れてあげたほうがいい」と開き直る鈴木麻里さんは衝撃的でした。こういう言論の暴力性を行使できるのが、批評の面白さだと思います。

 『ベイルートでゴドーを待ちながら』は、軽妙なコメディなので、そこにいかなる寓意がこめられているかを見逃してしまってもおかしくはないわけですが、投稿はいずれも正確に、ひとつひとつのアクションを解読している点に好感を持ちました。ただせっかくなので、ベケットの『ゴドーを待ちながら』と比較するという視点があっても良かったかと思います。