ふじのくに⇄せかい演劇祭2015上演作品にたくさんの劇評をお寄せいただき、誠にありがとうございます。私は海外招聘の担当をしていますが、これだけいろんな風にとがった作品を多くの方が正面から受けとめてくださったのを知って、とてもうれしかったです。それだけに、今回は結果の発表がとても遅れてしまい、本当に申し訳ありません。はじめてコンクール制にしてみて、予想以上に多くの劇評をいただいたこともありますが、次回はこの反省を活かし、なるべくみなさんの観劇の記憶が薄れない時期に発表できればと存じます。
「劇評塾」から「劇評コンクール」になって、投稿数が増えただけでなく、平均的な質もかなりアップし、読み応えのある劇評が増えたように思います。私は以下の基準で評価いたしました。
5:十分な批評性がある/興味深い指摘をシャープに表現できている
4:一定の批評性がある/興味深い指摘がある
3:作品・感想を的確に表現できている
2:描写や表現に適切さが欠けている
1:劇評として適切な形式を満たしていない
私が劇評を読む際に重視するのは、まず、単に作品で語られていることを抽出するだけではなく、舞台芸術作品としてどのようなものだったのか、つまりその演じられ方(演出・振付・演技・音楽・舞台装置・衣裳・・・)によってどのような効果が生まれていたのかを適切に表現できているか、ということです。そしてその次の段階として、作品だけでなく劇評においても、書き手のヴィジョンが読んだ人にどれだけ影響を与えられるのか、ということがすぐれた劇評の基準になると考えています。そこでは、ヴィジョンの強度と、それを表現する能力の両方が問われることになります。
今回最高の評価を得た西史夏さんの『小町風伝』評は、書き手の鮮烈なヴィジョンを通じて、イ・ユンテク演出『小町風伝』という作品の舞台芸術としての価値を見事に表現し、読み手が作品を見ていなかったとしても日々見ている世界が違って見えるようになるかも知れない、というくらいの強度と説得力を持っています。
また、同じく西史夏さんの『ベイルートでゴドーを待ちながら』評も、読み手に存分に舞台作品の魅力を体感させてくれつつ、作品の背景となる中東の状況、そして日本の現状にも目を開かせてくれます。
ちなみに、作品を肯定的に捉えているか、否定的に捉えているか、ということは、もちろん劇評自体の評価とは無関係です。とはいえ、作品を適切に評価するには、まずはその作品が持ちうる効果(場合によっては自分に対しては発揮されなかったが、他の観客に対しては発揮されたであろう効果)を十分に看取している必要があります。そのうえで、その効果自体を否定的に考察し、それよりも強いヴィジョンを提示することで、優れた劇評が生まれる可能性はあります。ただし、これは多くの場合、作品を肯定的に評価するよりも難しい作業になるでしょう。
劇評を読む楽しみの一つは、同じ作品が産む効果を、それぞれの人が異なるように受けとめているのを見ることにあります。たとえば、今回の応募作では、井出聖喜さん『「觀」という体験』と鈴木麻里さん『魂の垢すりエステ』が、同じ『觀』という作品を論じながら、ある種対照的な評価を下しています。井出聖喜さんは「私たちはこの「觀」を目の当たりにすることで、この世界の本質に遭遇することになったのだという思い、そしてそれは最初からそこにあったのであり、ただ私が気付いていなかっただけなんだという思いに私は駆られている」と語り、この経験を詳述していくのに対して、鈴木麻里さんは「極上の贅沢なエステを堪能する様な気持ちいいことずくめの2時間でこざっぱりした魂を取り戻させてくれたこの完全無欠さに私は戦慄を覚えた。クレームを呼ぶ様な不快なことや怖いことや傷つくことや痛みが何一つとしてなく、効率的にカタルシスへ誘導してくれるエレガントな演し物だった」としています。井出聖喜さんは「個々の演者は己の精神をどのように統御するのだろう、どんな「修養」を重ねるのだろう。彼らにとて拭い難いであろうやくざな日常をこの「世界」に持ち込まないようにするために、つまり「世界」の本源に向き合うために、流れに浮かぶ泡沫をどのように掻き分け、廃棄していくのだろう」と自問しますが、鈴木麻里さんはこれを「世界の本源に向き合っている」というよりも、むしろ「訳も意味も少しずつ忘れられて形だけが無垢な魂の様に遺され」た儀式、と見て、このような「垢すり」の作業への批判を展開しようとしています。この鈴木麻里さんは、作品世界とそれを批判する自分のヴィジョンの双方を十全に表現するという困難な作業を、多少乱暴ではあるものの、一定の強度をもって行っています。ただし、それが作品の強度と見合ったものであるかどうかは議論が分かれるところでしょう。
必ずしも作品の批評を十全に展開できていなくても、自分固有の観劇経験を見事に言語化できている劇評を読むと、個人的にはとてもうれしいです。たとえば森麻奈美さんの『盲点たち』評は、「見える」「見えない」という体験のあわいを作品世界と結びつけ、書き手の経験を微細に共有させてくれるものでした。