劇評講座

2017年7月12日

秋→春のシーズン2015-2016■最優秀賞■【室内】坂本正彦さん

カテゴリー: 2015

亡霊になること―クロード・レジの『室内』をめぐって

 淡い光が、かろうじて三日月形に照らし出す空間。すべてに、露光不足の写真のように粗い粒子のヴェールが被さって見える。(実際、『室内』のリーフレットの表紙には、この埃のような粒子のヴェールが被さった写真が使われている。その埃は、床に敷き詰められた砂が煙となって立ち上ったものだろうか。)
 人影たちが匿名のまま、緩慢に移動する中、やって来た二人の男が、舞台手前の薄暗がりの中で話し始めるので、三日月形の空間が室内であり、人影たちが家族であること、男たち自身はその家の娘の死を告げに来た使者であることが明らかになる。しかし、その使者たちの声も、抑揚を欠き、不自然な分節が施され、人間らしい感情をまとうことはない。だから、家族も使者たちも、まるで亡霊のようだ。

 しかし、亡霊はそこにいるのか? むしろ、こう考えるべきではないだろうか。本当は、すぐそこで団欒のひと時が過ごされ、死の告知が真剣に躊躇われているのに、粗い粒子のヴェールに遮られているせいで、それを見ることが叶わないのだ、と。
 ならば、やはり、クロード・レジは亡霊を召喚したのだ。ただ、それは舞台をさまようあの人影たちのことではない。亡霊とは、この掠れ、変調した光景を見ている者のことだ。すでに異界に足を踏み入れてしまったために、この世界をもはやヴェールを通してしか見られなくなった者、かろうじて漏れ聞こえてくる言葉も切れ切れとなり、まともな意味を胚胎しなくなった者。彼(女)こそが、亡霊でなくて何だろう。
 実際、自分に死が訪れたとき、死んでしまった我々はそのことを認識できない。だから、もう生きられはしないが、死の到達も永遠に遅れ続ける。亡霊とは、そうした死とその到達のあわいに漂うものだろう。
 ならば、それは誰か? この物語においてなら、もちろん、川に溺れて亡くなったこの家の娘以外にはありえない。娘は亡霊として、その遺体よりも早く家に帰り着き、この光景を見ているのだ。
 だが、死んだ娘の見ているこの光景とは、まさに、客席で我々が観ている光景それ自体ではないか。ならば、疑いなく、いまや、我々自身が亡霊だ。我々は亡霊が登場する舞台なら幾たびも観てきたが、まさか、舞台を観ることで、自分自身が亡霊になろうとは!
 この亡霊への生成変化を成就させるため、レジは、中途の入退場はおろか、おしゃべりも、咳払いさえ禁じ、ただ死体のように鎮座することを我々に求めた。葬儀は厳粛でなければならないし、亡霊は決して咳込んだりはしない、と。

 亡霊が見ているこの掠れた光景の中に、名を持った二人の女性が召喚される。最初に登場する孫娘マリーは、「このこと(娘の死)を言うのは明日にして」と提案し、遅延をさらに引き伸ばすことに加担するが、もうひとりの孫娘・マルトは、すべてを変えてしまう。そう、レジの『室内』は、マルトの登場によって、その第二章の幕が上がるのである。
 マルトは、遺体を運んで村人たちがすぐそこまで来たと伝えて、永遠の遅延=無時間のまどろみにピリオドを打つ。(これらのセリフにも相変わらず、抑揚を押さえた奇妙な分節が施されているのだが、その意味は明確に伝わるようになっている。)舞台も少しずつ明るさを増し、埃のヴェールは薄れていく。
 ついに、葬列が上手に到着し、老人は当初の役割通り、告知を行うために室内に入って行かざるをえなくなる。そして、彼が娘の死を告げた瞬間、家族は唐突に戸外へと飛び出して行き、どんなメロドラマ(=絵に描いたような悲嘆)よりも深く、彼らの受けたショックを表現する。いや、むしろ、彼ら自身がショックそれ自体へと変貌している。だから、彼らの移動の鮮烈さは、我々のまどろみを断ち、我々を亡霊から観客へと立ち返らせる。
 生還した我々は、舞台との距離と感情とを取り戻し、家族の出立に心底驚いたり、このシーンが後半のクライマックスだと納得したりするだろう。そう、自分が死んでいたことも忘れて……
 しかし、舞台の最後の最後、この騒ぎにも目覚めることなく、幼い末子は無人となった室内に一人横たわり続ける。まるで、死んだように。あたりは再び暗く霞んでいく。これは、この子が亡霊として見始めた光景だろうか。ならば、それと同じ光景を見ている我々も、再び亡霊へと変貌しつつあるのだろうか。この問に答えが出る前に、すべては死のような闇に閉ざされる。
 こうして、レジとSPACの役者・スタッフが作り上げた『室内』からは、クリシェとなるメッセージの一切が排除され、ただ強度のみがそこに立ち現われる。我々は実に沢山のことを感じたのに、本当のことは何一つわからない。かろうじて、カーテンコールとともに、それが大いなる解放であったことを寿ぐだけだ。