「劇をする劇をする劇」を観る
舞台を見つめながらずっと、自分がサルになったような気がしていた。子どもの頃に聞いた「タマネギの皮をむくサル」のことだ。サルにタマネギを与えると、実を食べようとしていつまでも皮をむき続け、最後には何も残らない……きっと嘘だと思うが、妙に本当らしくて気になってしまう。この舞台も、登場人物の真実を見極めようとするといつまで経っても皮をむくことになる。味わうべきは皮であり、嘘の皮をまき散らす2人の言葉と姿を追うことに楽しみがあるのだけれど。
「薔薇の花束の秘密」には人生に深い後悔を抱く2人の女性=患者と付添婦の嘘と誠を交えながら互いに心を通わせていく姿が描かれる。15分の休憩をはさんで3時間弱、2人のやりとりを堪能した。
付添婦は嘘をつく。看護師の免許もなく、医師に頼み込んで低賃金で試験的に採用してもらったのだ切なげに語る。さらには、医学部に進みたかったのに叶わなかった身の上を打ち明ける。しかし、実のところ彼女は優秀な看護師であり、医師の方が高額な給料を支払って頼み込んだのである。患者が彼女と心が通い合うのではないかと思った矢先、娘の電話から付添婦の事実を知る。
だまされたと知った患者は、付添婦が病院の研修を受けて看護師になれるようスペインの大使館に頼みこんだと嘘をつく。付添婦は喜んで勉強をはじめる。しかし、彼女は看護師免許を持っているのではなかったか?これは演技なのだろうかとも思うが、やがて、願いが叶わないと知った彼女は死のうとさえ思い詰める。ならば、あの喜びは本当だったのか?
どれほど注意深く聞いても、2人の言葉のどれが嘘でどれが本当かは見分けがつかない。高圧的だが内面は傷つきやすい患者と気弱に見えてしたたかな付添婦。いや、本当はそうではないかもしれない。舞台上の2人は観ている我々を欺こうとしているのではないか、とすら感じるようになる。嘘をつくという演技を相手役に見せる演技を通して、我々をだまそうとしているのではないか。つまり我々は「劇をする劇をする劇」を観ているのではないか、という疑念が最後まで消えない。
考えてみれば我々の日常もささやかな演技の連続である。その場その場で急に割り振られた役をとっさにこなす。そうした演技の連続の中に、我々は自身の立ち位置を見いだしていくのだ。いつも似たような言葉の繰り返しと、微妙に変化する「お約束」。「日常」とは輪のような永遠なのかもしれないと気づかされる。抜け出したいが抜け出せない。患者のスペイン行きの嘘に付添婦があれほど喜んだのも、「日常」からの脱出が可能になったからである。しかし、それは嘘であり、付添婦の喜びはよけいに息苦しさを感じさせられる。
だからほっとするのはむしろ幻想の場面だ。そこでは、2人の人生の苦しみが(多分)正直に描かれる。付添婦は病気の妻がいた恋人との思い出を、患者は夫の不倫をはじめとする家族の崩壊という苦しみを、ずっと抱えていることが明かされていく。互いの家族が登場する場面では、それぞれが相手の家族に成り代わってやりとりを繰り広げる。下手からの明かりに照らされて、舞台の奥に吊されたブラインドに映る2人の影法師はまるで肥大した自意識のようだ。
幻想の場面をつなげていくと、2人の過去が輪になっていることが明らかになる。かつて不倫された妻と不倫した娘 - 直接関わりがあったわけではないが、双方とも既に死んでしまった「男」の存在を中心にして、完結した物語世界を形作っている。だから、互いの記憶の中にもう1人が様々に役柄を変えて登場することが自然なのであり、過去の幻想が現実世界の中にあふれ出していくことも自然なのだ。2人の女優の演技はその「自然」を見事に実現している。
観客は例えば、「帽子」の助けを借りて、彼女らの「自然」についてゆくことになる。
普段はナースキャップをかぶっている付添婦は、帽子を取ったり変えたりすることで人物の造形をくっきりと浮かび上がらせる。患者の「娘」が離婚裁判を有利に進めるために上品な帽子を選んで被るのはこの舞台でつかれる「嘘」を象徴しているようだ。
けれども、母の死の床の幻想の中にいる付添婦はナースキャップを被ったままだ。母は娘を妻のいる恋人と引き離したことを詫び、許しを乞う。しかし、付添婦はどうしても母を許すことができない。許す素振りを見せながらも「許す」の「す」をはっきりと言い切ることができない。ついには母と恋人の妻の死を願う言葉を叫ぶ。ナースキャップは被ったままだ。とうとう、過去と現在がぶつかる瞬間がやってきたのである。
この幻想のきっかけは、患者からの残酷な嘘だった。患者は医師が付添婦を研修に推すことを拒んだ理由として「育ちの悪さ」を挙げたと告げた。おそらくはこの言葉によって、付添婦は彼女自身の運命から逃れられぬことを知ったのである。まるで額に刻印された傷のように、どれほど嘘を重ねても彼女の運命は明示されてしまうことを、過去からは逃れられぬことを、知ったのである。どうあがいても「日常」の連環からは抜け出せないのだ。
一方、残酷な嘘をついた患者もまた同じ苦しみを抱えている。孤独をごまかすために壁をつくり、だから心を開きかけた矢先の付添婦の嘘は許せなかった。必死に嘘をつくことで自分を保とうとする。嘘をつき続け、嘘に縛られる2人の姿から見えてくるのは生きるということの救いのなさであり、深い絶望である。運命から目を背け、あれこれ手を尽くし、にっちもさっちもいかなくなった現実がそこにはある。だから、わずかな希望(それすらも嘘であったのだが)を断たれた付添婦は死を決意する。彼女の死は患者にも破滅をもたらすことは明らかである。
しかし、患者の悪意から始まった奇跡のような偶然が2人を救う。
誰が意図したわけでもないのに偶然に起こる幸運は、隣の座席におかれた贈り主不明の「薔薇の花束」のようなものだ。なぜ、そこに花束が置かれたかなどとは考えない方がいい。送り主の意図と受け取った当人にとっての意味のずれは必ずしも幸福とは限らないからだ。それよりも、今そこにある花束の美しさを愛でよう。香と重みを味わおう。一番大切なのは「あなたがどう感じたか」であり、「君がどう思っているか」ではない。不必要なまでにその「意味」を考えることは、むしろ自分を傷つける。劇中に救いの糸として語られる「自分自身と仲良くなること」という言葉は、多分、そういうことだ。
それにしても - 2人からさんざん嘘を聞かされた耳は違う物語の可能性を疑ってしまう - もし、この物語が最初から最後まで付添婦の嘘だとしたら。彼女は病院が手を焼いている患者を見事に手なずけたことになる …… やっぱり私は不必要な意味を求めるサルかもしれない。