宮城聰の繊細なる挑戦 ~SPACの『黒蜥蜴』をめぐって
戯曲『黒蜥蜴』で、三島由紀夫は、ト書きによって自身の演出プランを細かく示している。たとえば、冒頭のホテルのシーンでは、並んだABC三室を使う進行が詳細に指示されている。今回、演出を担当した宮城聰は、こうした三島の指示に基本的に忠実である(注1)。ただし、幾つかの例外を除いて。まずは、この例外を通して、宮城が『黒蜥蜴』をどのような芝居として現出させようとしたのか、明らかにしていきたい。
冒頭のシーン。三島のト書きでは、女賊・黒蜥蜴が化けた有閑マダム・緑川は、ホテルの安楽椅子に腰を下ろし、これから誘拐することになる宝石商の娘・早苗に上流階級のたしなみを優雅に伝授する。ところが、宮城は、緑川と早苗を舞台前面に並ばせ、マネキンの様に身じろぎ一つさせず直立させた。そのセリフも人間的な抑揚が抑えられ、まるで遠隔操作された人形がしゃべるかのようだ。
「俺の芝居っていうと、レトリックや装飾の多い言葉ばかりだから、演出家も役者も気どりやがる。石鹸箱の石鹸や歯ブラシのように、こともなげに、日常会話をしているがごとくに話してくれる役者を求めていたんだ。君以外に考えられない」(注2)。
これは、三島が美輪明宏に『黒蜥蜴』出演を懇願したときに口にしたとされる言葉だが、ここから、三島が『黒蜥蜴』のセリフが人工的・様式的であることを自覚し、それにリアリティを賦与できる役者を渇望していたことがわかる。
つまり、宮城は、三島が求めたこの(商業演劇的な)リアリティを否定し、この芝居の人工性・様式性を際立たせることを高らかに宣言して、芝居の幕を切って落としてみせたのだ。そして、緑川と早苗が生けるマネキンとして登場したからこそ、緑川が早苗に成りすます次のシーンは、あっけないほどスピーディーに進行する。父親の岩瀬庄兵衛も、二人が入れ替わったことに気がつかない。着ている服が同じなら、ブティックのマネキンが入れ替わったことに誰も気がつかないように。この人形のテーマは、芝居の底流として、人間の剥製までつながって行くことになる。
もう一つ、宮城が三島の演出プランを拒絶したのは、光である(注3)。たとえば、東京タワーの展望台のシーン。三島はト書きで「ガラスの外は落日の残光」としている。ところが、展望台に限らず、芝居のどの場面においても、宮城は黒いホリゾントを一貫して使い続け、夕日が舞台をオレンジ色に染めることなどありはしない。ラストシーンでも、事件の解決を象徴して三島が「朝の光が大幅にさし入る」と指示しているにもかかわらず、宮城の舞台は、暗さに満ちたまま幕を閉じる。三島が光を用いて時間経過を表し、日常的・説話的持続を構築しようとしたのに対して、宮城はあくまでも、この芝居を一貫して夜の中に沈めてみせるのだ。
こうして。美輪明宏の起用からライティングまで、商業的な成功(同じことだが、観客の納得)のために三島が打った手を排除することで、宮城は、この戯曲の隠された意図=可能性の中心を射抜くことに挑戦したのである。
では、その隠された意図とは何か。
首領である黒蜥蜴自らが危険を犯して東京タワーに赴き、手に入れたダイヤ「エジプトの星」。それを自室に飾りながら、黒蜥蜴は、「宝石は自分の輝きだけで満ち足りている透き通った完全な小さな世界。その中へは誰も入れやしない」と一人ごちる。ただし、彼女のセリフは、ダイヤを愛でるだけでは終わらない。黒蜥蜴は自分とダイヤを比べ、「私の心はダイヤだ」という。つまり、誰も入れないと。重要なのは、この後だ。「でももしそれでも入って来ようとしたら? そのときは私自身を殺すほかないんだわ。私の身体までもダイヤのように、決して誰も入って来られない冷たい小さな世界に変えてしまうほかは……」と述べる。
このセリフは矛盾している。本当に心がダイヤなら、その中に誰かが入ってくる心配などする必要がないからだ。つまり、彼女は、自分がダイヤではないと知っている。ダイヤのように、どこまでも孤高で、並ぶものがない存在でありたいと願う一方、彼女は、意識のどこかで、自分がダイヤではないことに気がついている。ただ、それだけではない。彼女には、完璧さのためなら自らの命を否定するという覚悟がある。より正確には、もし、自分がダイヤでないことが明らかになったときには、死によってダイヤの完璧性を模倣するしかないという諦念が。この覚悟=諦念こそが、彼女を純化し、比類なき存在にしている。この矛盾した心性は、まるでウロボロスのようだ。そう、だからこそ、彼女の窃盗団は、爬虫類こそを名誉ある称号としているのだ。
宮城は、タイトルロールを演じたたきいみきに、やがて死ぬことになる自分の運命を先取りさせ、そのセリフに諦念をまとわせる。とりわけ、「ないんだわ」という語尾を強調して。現在のことをしゃべっているのに、「だわ」という終助詞によって、それは未来を、運命を語るセリフとなる。宮城の要請に応え、たきいの演技は、死を運命として受け入れる予兆に満ちたものになっている。
黒蜥蜴は明智小五郎に恋してしまう。恋=エロスとは、自分に欠けた何かを狂おしく求める心であり、そこで自他共に、彼女が偽のダイヤであることが露呈する。謎を解かれたスフィンクスのように、黒蜥蜴は死ななければならない。しかし、先に述べたように、死の決意こそが、逆説的に、彼女をダイヤモンドに、すなわち、完全無欠な存在にしてくれるのだ。黒蜥蜴は、躊躇うことなく、毒を仰ぐ。
こうして、宮城がこの芝居を黒=夜の中に沈めた理由がわかる。それは、この芝居全編が黒蜥蜴の喪の営みだったからに他ならない。だから、事件が解決したからといって、朝日など差し込むはずもない。喪は、あくまでもしめやかにその幕を閉じなければならないのだ。自分の心はダイヤではなかったという黒蜥蜴の自覚を、喜びに満ちた献花として、秘かに添えて。
死を賭した一瞬の輝きだけが本物なのだから、芝居のすべてを通覧してみせる理性の象徴である明智は、最後にこう宣言するだろう。もはや、この世に本物など存在しえない。豊饒の海が実は月面の不毛の砂漠でしかないように、すべてはフェイクである、と。
注1 たとえば、二幕第3場の東京タワーのシーン。三島のト書きには「二度ほどエレベーターのドアが開き、客が展望台に入って来る」とある。宮城は、忠実に2回、昇降機まで使って、エレベーターが上がって来る様子を表現している。
注2 美輪明宏「『黒蜥蜴』のこと」。『黒蜥蜴』(学芸M文庫所収)。この後、さらに、三島は美輪に「馬鹿八千人に支持されたい」と述べ、三島が芝居を商業的に成功させたいという願望を持っていたことも、明らかにされる。ただし、これらは、美輪明宏による回想なので、その信憑性は低くないとしても、鵜呑みにすべきかどうかは、意見の分かれるところではある。
注3 もちろん、沢田祐二が照明デザインを担当したのだが、それを最終的に採用したのは宮城なので、ここでは光の設計も、宮城の意図を示すものとして考えることにする。