劇評講座

2017年7月12日

秋→春のシーズン2015-2016■入選■【黒蜥蜴】下田実さん

カテゴリー: 2015

「悪徳」のよろめき

 緑川夫人は右手を軽く腰に当て、ストゥールを載せた左手をそっと差し出して、早苗に語りかける。まるで絵画か彫刻のよう……と思ったら、クラーナハの絵画「アダムとイブ」を思い出した。イブが知恵の実を差し出してアダムを誘惑するように、夫人は早苗を外の世界に誘う。(ただし、後で確認したらクラーナハのイブは右手にリンゴを載せていたけれど。)それから、もうひとつ、ミロのヴィーナスに手がついたらこんな感じかもしれないとも思った。考えてみるまでもなく、誘惑者と美神の混在はこの劇の持っている「不安定」にぴったりだ。

 もっとも、こんな私のシンボライズ勝手な想像など嗤うように、舞台には様々な要素が出現する。冒険活劇、猟奇趣味、恋愛、成金、犯罪、エロティシズム、ピカレスクロマン……こう並べてみると、「黒蜥蜴」は難しい芝居だと思う。きわどい要素が混在して収拾がつかなくなる。あるいは陳腐なメロドラマに堕し、明智と黒蜥蜴の語らいも上滑りで空疎な言葉の交換としか思えなくなる危険を孕んでいる。これらの要素を紡いで劇としての浄化を図るには、暗闇の中でかすかな尾根伝いに頂上を目指すような注意深さが必要である。
 こうした混沌に光を投げかけるのが音楽と舞台設定である。ともすればばらばらになりそうな要素が音楽劇というフレームの中でステンドグラスのような絵に仕上がる。一段高く組み上げられた舞台のすぐ下で奏でられる音楽が、劇を祭祀の中におく。舞台に向かい、中央に座っている女性はまるで導師のようだし、その両脇から奏でられる音楽は祈祷の時に捧げられるそれを思い起こさせる。もしかするとそこには三島由紀夫へのオマージュがこめられているのかもしれない。
 ともあれ、この祭祀を思わせる「装置」のおかげて舞台は混沌を免れ、我々観客は「不安定さ」を受け入れ、登場人物の言葉に耳を傾け、その動きに注目することになる。
 「不安定」といえば、この舞台を貫く軸のひとつは緑川夫人=黒蜥蜴の明智への恋情も不安定そのものだ。「安定は情熱を殺し苦悩・緊張こそが情熱を生む」というのはアランの言葉だが、この言葉の通りに彼女は明智への気持ちを高揚させていく。
 例えば、2人は初めて会ったときに互いのプライドを賭ける。探偵と犯罪者という対立以上に、これ以降どのような恋情を相手に抱いたとしても、決し成就することがないことがはじめから約束されているのである。そのことがむしろ、彼女の気持ちを気づかぬうちに強固にする。そこからは、破滅に向かって自ら望んだように歩みを早めていくことが暗示される。我々観客が黒蜥蜴を憎み切れないのは、その一途なはかなさにある。
 それは彼女が宝石について抱く感情と同じだ。「世界中の美しいものを集めるため」と言いながら集める(盗む)行為そのものに喜びを感じている黒蜥蜴にとって、「手に入れたいが手に入れられない」=不安定の中にこそ喜びがあるのだ。手に入れてしまえば、宝石の価値は本来の輝きを失ってしまう。その意味で黒蜥蜴は純粋で求道的ですらあるように思える。被害者にもかかわらず「手に入れてしまったものの金銭的な価値」にしか目を向けられない岩瀬氏が徹底した俗物として描かれているのとは対照的だ。
 戦後の復興期に財をなした岩瀬氏が「きれいな仕事」ばかりをしてきたはずはない。舞台に組まれた鉄骨が示すような昭和高度成長期の混乱の中をしたたかに成り上がってきた彼と、黒蜥蜴の間にダイアモンドをおくことで、正反対の価値観がくっきりと浮かび上がる。それは三島が社会に対して感じていたジレンマを表しているのかもしれない。そう考えると、演出家の宮城氏が三島を「美という観点から世界の転覆を企んでいる黒蜥蜴の一味が、僕には三島の『楯の会』に重なって見えてきます」と書かれていることにもうなずける部分がある。
 一方、亡くなったずいぶん後でその著作から改めて三島を知った私は、『黒蜥蜴』の中に、書簡形式の小説『三島由紀夫レター教室』のような、軽妙な中に感情のすれ違いやさや当てが描かれた作品を思い浮かべた。(宮城氏とほぼ同い年ではあっても、私には三島を同時代の人として感じるだけの力がなかったということもあろう。)例えば明智と黒蜥蜴のやりとりは、相手に対する気持ちを悟られぬようその周辺を注意深くなぞるように交わされる。彼等は互いをよくわかっている。美しいものを手に入れる行為そのものに喜びを見出す黒蜥蜴と犯罪を解き明かす行為そのものに価値を求める明智は同族だからだ。しかし、彼等は互いが交わり得ないこともよく知っている。彼等の想いが直接的に語られる(明智の想いは部下によって代弁される)時のぎこちなさにも、時に冗長とも感じられる会話にも、そのもどかしさがよくあらわれていた。
 ところで、三島の小説『美徳のよろめき』には不倫に身を任せながら聖女のような美しさを保つ女性が登場する。一方、黒蜥蜴はプラトニックな恋情を抱きながらも自ら死を選ぶ。「美徳」はよろめいても許される……かもしれないが、「悪徳」には破滅が待っていた。でも、「悪徳」の側により親密を感じてしまうのは明智小五郎だけではないと思う。