運命の黒枠に縁どられた未熟な恋
十四歳、いや十四歳にはまだ二週間足らぬ少女と、十六歳の少年の恋。ロミオもジュリエットも今から思えばずいぶん早熟だ。
尤も、平均寿命の極めて短く、死が常に身近にある時代と現代を簡単には比較できない。といって、二人の恋が成熟した恋として認められるものだったというわけでもない。
シェイクスピアにすれば、見せたかったのは子供の火遊びを一歩越えたくらいの若者の恋の危うさだったろうから、初演当時の観客にとってもこの二人は若すぎて目の離せない存在と認識されたことに間違いはあるまい。
オマール・ポラスは、ロミオ役に女性の山本実幸、ジュリエット役に現役大学生の宮城嶋遥加を抜擢し、周りをフランスからの客演俳優やSPACの曲者俳優たちで固めて、″穢れなき純粋の恋″を、旧弊に凝り固まり憎しみと欲望をほったらかしの大人社会の中に配置し、ひと際美しく存在させることに成功した。山本は無鉄砲にして凛々しい若者を、宮城嶋は初々しく無邪気な、そのくせはかなげな少女を演じ、舞台上に輝きわたった。まさに灯火に輝き方を教えてやりたいほどに。
「穢れなき純粋の恋」と言ったが、大人たち(あるいは観客)にとってみると、二人は人生のなんたるかを知らぬ未熟者たちで、その恋は単なる思い込みの領域にも見え、果たしてどれだけ継続するものかも知れぬ、まさにいつ壊れても不思議でない危うい恋だ。
尤も恋が消えてしまっては、芝居は喜劇のまま終わってしまうから、舞台の展開はそんな将来のことなど考える間もないくらい早い。
出会ってたった五日の間に、二人は結婚し混乱と一夜の契りの後別れ、再開するや毒を飲み短刀で自らの胸を刺すのだ。この五日間を舞台は、コミカルな踊りあり歌あり剣劇ありの小気味よいテンポで進む。そして二人はその中を疾風のごとく駆け抜ける。
さて、恋の輝きは明らかに背景の明度の低さによって高まる。周辺が俗っぽく憎しみと欲望と打算と旧弊に固まれば固まるほど、主役は純粋で清らかで革新的となる。滑稽な喜劇の様相を呈すれば呈するほど、二人は真摯になり悲劇は一層深まっていく。
脇役たちは、時には品悪く滑稽で、時にはかたくなで口汚く、観客を笑わせ怒らせ、苛立たせ、固唾を飲ませ、そして泣かせ、つまりは十分に観客を翻弄した。
オマール・ポラスは舞台を和風にセットし、性別に拘らない配役を組み、日本語とフランス語が飛び交う文化、性別、時代混交の演劇に仕立て上げた。だから観客は英国近世の文豪による劇で、同時代の日本風の衣装や歌舞伎調のチャンバラを、いやもしかしてオマールはこの立ち回りをやるためにこの芝居を選んだかと思うくらいの迫力ある殺陣を、楽しむことができる。
では観客が全面的にこの幼い恋に肩入れしているかと言えば、そんなことはあるまい。
この恋の成就を願いながらも、「一気に燃え上がる恋ほど冷めるのは早いのさ」「ロミオはつい数分前まで他の女に夢中だったくせに」とかなんとか、誰もが眉唾の恋という思いを頭から払拭することができない。
なにしろ、我々観客たちの片方の足は、明らかに舞台の背景たる打算の積み重なった日常生活にあるのだ。悪い人間がいるわけではないが、憎しみ合いの状況は放置されたまま。頑固ではあるが娘や息子を溺愛する夫婦たち。品はないが愛情深い乳母。友達思いの誇り高き友人、かっとなると自分を制御できなくなるが常に一族のことを思う若者。やや策を弄しすぎる傾向があるが、若い二人のことを真剣に考えてくれる神父。にも拘わらず、思い込みと思い違いの果て、観客の心を十分に逆なでした後、結末は二人の自死という最悪の結果となる。二人は、とりわけロミオはその死に向かって走り続けた。ロミオ、悔恨と焦燥のみが、お前をそれほど走らせるのか。
一体誰が悪かったのだろう。単に人間の愚かしさが積みあがっただけの結果なのか。そこを考え始めるとようやく誰もが、芝居を縁どっていた黒い枠に思い至る。
そういえば、この悲劇の語り手は、棺を抱えた黒い衣装の沈鬱なる集団であった。この国を統べる公明正大なるべき大公が、得体の知れない巨大で老いた醜い存在として君臨し、有無を言わせぬ裁断を下していくのは何故だ。神父でさえ、神でさえ立ち向かうことのできなかった圧倒的な力とは何だ。
この芝居の最後は二人の死の場面で終わる。本来なら若い二人の貴重なる血に購われて、両家は恨みと憎しみの呪縛から解き放たれるべきであり、その許しと博愛こそが観客を納得させる場面であったはずだ。
大公や沈鬱なる集団は、神も阿弥陀も死神さえも凌駕する黒く定められた「運命」だったとしか思えない。そういえば主人公二人が若いに似ず何度運命を恨み罵ったことか。
あれが運命としたなら、仮想の空間で笑い怒り歌い戦い合った人間たちは、また恋し希望し絶望し駆け抜けて行った主人公二人は、まさに運命の掌の上で踊っていたことになる。
オマールのおかげで、ここに至り観客はもう一つの視点を持たざるを得ない。二人の恋の行方、それに固唾を飲む両家の人間たちや神父、その舞台を黒く縁どる運命、それを泣き笑いしながら見つめる我ら・・・どうしてその我ら自身の人生には黒い縁取りがないなどと言うことができようか。そして我々を見つめる他の目などあるわけがないと確信を持って言うことなど・・・