劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■最優秀賞■【三代目、りちゃあど】柴田隆子さん

もう影法師はいらない? ~オン・ケンセン『三代目、りちゃあど』

 様々な参照先を示唆する引用の断片が、裸舞台に繰り広げられる。舞台芸術が「引用の織物」であることを端的に示しながら、オン・ケンセン演出『三代目、りちゃあど』は文化の多様性、多数性の中でのコミュニケーションの可能性を問う舞台であった。
 1980年代の日本の観客に向けて野田秀樹が執筆した本作は、異なる時代や地域の文化が入れ子構造に反映されているテクストである。15世紀半ばの薔薇戦争を素材にした、16世紀後半の戯曲『リチャード三世』を下敷きにした物語は、作者であるシェイクスピア自身を被告とする裁判をめぐって進行する。己が野心のみを追い求める、極悪非道な「せむし」で「びっこ」の「リチャード三世」というキャラクター像は、時流に擦り寄る劇作家の歴史の歪曲、捏造であると彼の作中の登場人物が告発するのである。「創作」するという劇作家の行為そのものが主題となり、薔薇戦争やシェイクスピアの作品を緩い参照項に、創造者の苦悩が疾走感を伴った言葉遊びと共に語られる。
 『劇場文化』に掲載された内野儀によれば、アジアにとって忘却された近過去が芸術的係留点になりうるとケンセンは考えているという。本作が典型と言われる「1980年代演劇」は、「軽薄短小」を良しとし、連想されるイメージのスピードと乱反射の快感に身を委ねる観客に支持されたとされる。演劇批評史では否定的に語られがちな「80年代演劇」だが、ケンセンの舞台を通して見えてくるのは、西洋近代演劇とは異なる芸術家と観客の関係である。
 シェイクスピアの行為の是非をめぐる裁判の陪審員となるのは、舞台では多数の目であらわされる「観客」である。この構造は、観客の評価により作品の是非が後世に残る舞台芸術のあり方とも重なる。客席に座る観客は言葉の断片を自身の参照項に照らしながら、妄想力を駆使して劇中の登場人物を現象させる。多様な参照先全てに呼応しながら舞台を見ることを断念した観客は、ともすれば妄想だけの竹林に迷い込むことになる。ケンセンの演出では、さらに身体を媒介にした表象やパフォーマンスレベルでの引用が試みられる。静岡芸術劇場の客席に座る観客として彼が想定しているのは、歌舞伎や狂言を嗜み、宝塚にも小劇場にも足を運び、日本語字幕付きで欧米の映画やテレビドラマも楽しむ日本人である。それぞれのジャンルに精通している見巧者である必要はない。「妄想」は「正しい」参照項を必要としない。歌舞伎の女形である中村壱太郎の甲高い声と華奢に見える身体に、そこにはいない野田秀樹を妄想してもよい。髭を描いたたきいみきやホスト然とした久世星佳にク・ナウカや宝塚の舞台、あるいはジェンダーの境界を問うようなあまたの舞台を想像してもよい。彼らの身体に演出家であるオン・ケンセンの姿を妄想することも可能である。
 だが、いかに妄想できたとしても、80年代に夢の遊眠社で許されたような舞台を消費財とする楽しみ方は、このケンセンの舞台では難しい。丁々発止とスピード感あふれる彼らの身振りや発話は、野田のテクストにある疾走感を表現しながらも、言語の違い、舞台ジャンルの違いが微妙なずれとして感じられる。言語や身体的身振りにはそれぞれの文化に呼応した間合いがある。その期待値との差は、ずれとして体感される。観客はこの微妙な間合いへの違和感から、物語に没入することも、登場人物に同化して感情移入することも、好きな俳優の演技に熱狂することも、断念させられる。終始、醒めた意識で「引用」の参照項を意識しながらも、それが見えない苛立ちにさいなまれる。それは文化の多様性、多数性を生きるアジアの苛立ちとどこか似ているかもしれない。ハイコンテクストな舞台のラストにはもう登場人物の姿は見えない。そこにあるのは、闇の中に大音量で共鳴する、イメージの連想を紡ぐことができなくなった言葉たちの残響である。
 オン・ケンセンの言う、表現の共通言語とは何なのだろう。舞台は答えを提示していない。むしろ、その関係性を観客自ら探求して欲しいと問いを投げかける。インドネシアの影絵芝居ワヤン・クリは影絵を見る側と、人形を操るパフォーマーを見る側の両面を楽しむという。客席を背にホリゾントに向けて人形を操っていたイ・カデック・ブディ・スティアワンの姿は示唆的である。観光客のように影法師ばかり見ていないで、創造の共犯者となろうと誘っているのだ。単一民族、単一言語の幻想にひたっていられた時代はもはや過去のものである。舞台芸術におけるアーティストと観客の関係を、野田のテクストを係留点として、消費文化から共に創造するコミュニケーションの文化への移行の歴史として共に捏造するのも、悪くない考えである。