劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【三代目、りちゃあど】三木春奈さん

ありもせぬ影

 悪名高く残虐な王として語り継がれる王、リチャード三世。彼のその滑稽な容姿と、目的のためなら手段を択ばない暴虐ぶりはまさに悪役そのものである。しかし、彼は本当にただの悪人であったのか、本当に王位を手にするために数々の殺人を犯したのか、そして本当に“せむし”で“びっこ”だったのか。すべての真相を知るのは彼を悪人として描き、世間にそれを知らしめた、『リチャード3世』の作者シェイクスピアただ一人であろう。
 劇の冒頭、舞台は三代目りちゃあど(すなわちリチャード3世)の最後の戦場、ボスワースである。窮地に追いやられたりちゃあどはそこで例のセリフを叫ぶ。「今ここに一頭の馬あらば、代わりにわが国をくれてやる。」
 舞台が一変する。そこは法廷であり、被告人は大量殺害の罪に問われたりちゃあど、検事調書をかくのはシェイクスピアである。
 このようなストーリーを見るのは初めてであった。同じ空間に作家であるシェイクスピアと、彼の書いた脚本の登場人物であるりちゃあどが存在しているのである。そこではもちろん、りちゃあどは自分の意思を持って語り、彼を生み出したシェイクスピアでさえもそれを思い通りに描くことはできない(りちゃあどの性質を理解しているので仕向けることはできるが)。そこがこの話の最大の問題である。すなわち、シェイクスピアが悪人として描いたりちゃあどは果たして自分の意思を持って悪事を働いていたのか、その意思で実の兄や王位を継ぐ幼い後継者を亡き者にし、妻であるアンでさえも利用したのか。彼の悪事を明白にする傍白はいったい誰が聞いたのか。りちゃあどとシェイクスピアという文字通り次元の違う人物を対等に見たとき、様々な疑問が浮かぶ。それを問いただすのがマーチャン率いる弁護団である。
 シェイクスピアの幼少期、また生い立ちや人物像。そこを深く考えてりちゃあどを知ろうとするものは少数派なのではないだろうか。シェイクスピアの弟の名はまさしくりちゃあど。そして彼は“びっこ”であった。理屈っぽくその言動から両親に煙たがられるシェイクスピアに対し、両親から愛されたあげく家を出て自由を手に入れたのは、体が不自由な弟りちゃあどだった。その憎しみは、彼の執筆活動、そしてその脚本の登場人物りちゃあどに向けられたのだ。
 弁護団は話を分かりやすくするため、りちゃあどの王位継承をもくろむ物語を、ある華道一派の跡取り問題の話へと作り変える。それを演じるのはりちゃあど本人たちであり、私たちは劇中劇のようなものを見ることになる。するとどうだろう。私たち観客は裁判所のシーンはまるで現実なのではないだろうかという錯覚に陥り、また舞台上の人物はみな自分たちのストーリーを客観視し始める。いま、華道会の話はシェイクスピアによって導かれたシナリオではなく、りちゃあど自身の意思により進行しているのである。そうなるとシェイクスピアも黙ってはいられず、りちゃあどが自分のシナリオ通りに動くように仕向ける。これこそが真理である。
 所詮りちゃあどやベニスの商人シャイロクはシェイクスピアの話に登場する架空の人物に過ぎない。(もちろん歴史上リチャード3世は実在するが)。つまり彼らはシェイクスピアの妄想上の人物であり、彼ら自身の意思を持つことなく、シェイクスピアが思うように動かされ、傍白を吐き、人格を形成されるのである。劇の終盤、孟宗竹に閉じ込められたシェイクスピアとりちゃあどは、結局机を離れ書くことをやめない限り、その運命から逃れられないことを悟る。作者によって描かれる登場人物とは、みなそういう運命なのである。また、シャイロクはりちゃあどを弁護するふりをしながら、りちゃあどのあの言葉を待っていた。「今ここに一頭の馬あらば、代わりにわが国をくれてやる」。そして彼を助けるふりをして馬を与え、国を手に入れようとしていた。何故か。彼は“悪役”であり、彼を“悪役”にしたシェイクスピアを、そしてその運命を呪っていたからである。
 かつて、私たちは物語の登場人物を、その作者によって言動を拘束された人物としてみたことがあっただろうか。私たちの中で彼らは、時にヒーローとして誰かを守るために勇敢に立ち向かい、時に悪魔として血も涙もない邪悪な心だけを持ち様々な悪事を働いていた。彼らの本心が別の場所にあるなど誰が思いつくだろう。それが自らの意思でないと誰が考えるだろう。彼ら“登場人物”は作者の妄想によって自由を奪われ、作り上げられた“ありもせぬ影”なのである。
 現実世界ではどうであろうか。私たちは常に誰かの物語の登場人物であり、また同時に常に自分の人生の作家である。つまり、私たちは自分を自由にコントロールできるがゆえに誰かのストーリーに合わせて自分を作り変えることもできるのである。事実本当の自分を知っているのは自分だけだろうし、本当に自分を理解できているのかも定かではない。この物語がどこまでを示唆しているのかは定かではないが、少なからず私は“空気を読む”という風潮や、“自分探しの旅”といった言葉がはびこる今の世の中を風刺しているようにも感じた。自分自身が“ありもせぬ影”と化さぬよう、また自分のストーリーに登場する他人を“ありもせぬ影”として仕立てぬように心していきたい。