劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【イナバとナバホの白兎】伊澤拓人さん

 駿府城公園は静岡駅から商店街やデパートが並ぶ繁華街を通り抜けた先にある。城は跡形もないが残った広大な敷地は様々なイベントに使われているらしい。歴史を身にまとった空間で、同時に人々の非日常を一手に引き受ける場でもある。観劇した日にはちょうど「肉フェス」なるものが催されていて、その熱気にあふれた空間はこの時代に外界にはありえないような「生」の様相を呈していたのであった。都市のまんまんなかにどっかりと腰を据えるこの公園が、『イナバとナバホの白兎』公演の劇場、「舞台」となった。野外劇場なのだから、そこでは閉じられた劇場とは違って場所との関係性のようなものが否応なく芝居へと入り込んでくる。夕暮れ後の濃い青の空、気づけば日は落ち肌寒く、照明が付き暗転が生まれる。場所は時と足並みそろえて人々を取り囲み、芝居の時空間と駿府城公園の時空間が混じり合うのである。
 この舞台はパリのケ・ブランリー美術館が開館10周年を記念して宮城聰に新作を委嘱し、生まれたものだ。レヴィ=ストロースが晩年に遺した仮説、すなわち古事記に記された『因幡の白兎』を含む大国主の物語と、アメリカ南西部の先住民族ナバホ族の神話の一部はルーツを共有しているのではないか。そして両者の大本となるアジアの神話がかつて存在したのではないか。こうした推測に基づき、イナバ、ナバホ、そして想像によりつくられたオリジナルの神話という3つの物語を3部構成でまとめたのが今作である。伝承の過程で形を変えていったイナバ、ナバホの物語がそもそもどのような神話から派生したのか、3部がこの芝居のいわば結節点であり、見どころである。
 物語としてイナバの話は面白い。奇想天外な驚きが多く、そしてテンポよくハッピーエンドへと流れていく。反対にナバホ族の話は少し毛色の違うゆったりとした時間のながれをもち、より人間の根源へと踏み込んでいくような神話だと感じた。1部と2部にみた2つの神話は共通する要素もあれば違いも多くある。さあこれがどのようにひも解かれるのかと3部へ意気込んでみるが、すぐに気づくことがあった。この芝居はナラティヴを丹念に一つ一つ拾い上げていくものではない。この神話は「狩猟採集で生きる人が農耕を覚えて国づくりをはじめる」というその筋と驚きと伏線が全てではないのである。骨、肉、土と生々しく、また人間臭い神々の登場する想像神話を、目の前に存在させた、このパフォーマンス全体こそが見るべきもの、そしてなにより見るものが参加すべきものなのであった。舞台上の人間は何かを伝えてくる演技者ではなく、なにものかを到来させる3種類の媒介者にすぎない。話すものは、歌やことばを重ね塗り、そこから立ち上がる音が、匂いが、肌触りが、生命感を伴って舞台上のできごとと混ざり合う。動くものは、仮面をかぶり、あるいは3DCGかと思わせるような無表情を保ち、役者自身の個性が巧妙にかくされている。記号としての身体に徹するその姿はそのまま本来的な「人間」を指ししめしているように見える。鳴らすものは、合図に従ってさまざまに打楽器を演奏するが、決して物語のうちの単なる効果音、オンの音にはならず話すものとの棲み分けが見事である。あるときは時の流れを示し、あるときは本当の高揚を支える楽器の音はこの舞台に欠かせないものなのだ。これら3つの役割は割り振られ固定されることなく幾度となく入れ替わり、そこに居合わせた全員の身体が、そしてことばが、混じりあって最後の祝福を待つ。それを見るものまでもが肌で感じ、到来を予感し、疑いなくそこに加わっているのである。
 これこそが、と、クライマックスを体験した観衆皆が感じたことだろう。音楽と言葉と身体の交差点に生まれるものこそが、「祝祭」と呼ばれるべきなのだ。
 この劇はSPACの集団創作によるものであるという。3部の神話はコレクティヴな想像で、仮面を被ったムーバーのように、そこに個人のつめ跡が一切ない。宮城聰はこの作品のPV中のインタビューで、「自分を知りたい、世界を知りたいという飢えをもった俳優たちが、神話をきっかけにお互いを知り、世界を知るということが、そのまま芝居にできれば」と話している。人が人や世界を知りたいという欲求から生まれた物語、これこそが神話だと劇は雄弁に語り、その再現として祝祭がある。これがそのまま、人間への興味に根差した文化人類学の知とも響きあうはず、なのである。
 私は、観衆は、そして俳優は、この芝居をきっかけに、人の人たる所以、そして世界が世界たる所以を、想像力を使って覗きみたのである。無い幕が下り、昼間とは打って変わって静かな暗い公園を抜けて静岡の街に戻ってきたとき、そこには人の住まう世界のより鮮やかな風景があった。この世界の、確かな鼓動の音の秘密を、知った気分なのである。