劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【アリス、ナイトメア】吉田美音子さん

 本作においてもっとも注目すべきは、この物語が「演劇」であると同時に、「彼女」の死生観にもとづく「経験」そのものの再生とみなすことのできる点であると考える。「彼女」とは、舞台のベッドの上で悪夢に悩まされるひとりの女であり、それは同時に作者のサウサン自身のエキセントリックな実時間上の経験でもある。演劇において、可視化しているが実在ではない「主人公」が「エキセントリックな状態に陥っているサウサン」、ただし一方で「サウサンはサウサン自身」ということは、「彼女」はサウサンを映した鏡ではなくて、「彼女」にサウサンが重なっている二重のキャラクターということになる。つまり彼女自身の「実時間での経験」が「演劇作品」と化しているということであり、まずはこの作品の性質そのものが非常に不可思議な構造をもっており、そのため「Alice」というタイトルが宙に浮いたような存在としてぼんやりと、しかし物語のなかでは唯一でてくる「名前」としてくっきりと提示されている。また、物語の途中で、彼女が明かりを手に「そこにいるのは誰?」と観客に向かって注意深く光を浴びせるシーンでは、それが我々のいる現実世界への問いかけではないにも関わらず、我々は互いに息をひそめ、しかし劇場がやむを得ず立てるどんな小さな物音に対しても、全員がひどく敏感になっていて、神経質で緊張感のある、不気味な空間が演出されていた。
 物語の舞台は、一貫して「彼女」の寝室である。観客は劇場に足を踏み入れた瞬間、ただ一つ置かれたベッドで眠る彼女を見つけることとなる。微動だにせず、仰向けに寝ている彼女に遠慮がちになり、開演前のおしゃべりもどこかひそひそとして、さほど弾むことはない。舞台の「時間」がはじまり、客席の照明が完全に落とされると、そこには床も壁もなく、あとはベッドだけが「舞台」であり、そしてそれは「彼女のベッドそのもの」でもある。彼女は延々とひとり悪夢に悩まされ、その孤独を受け入れることも完全に拒絶することもできず、希望を探しながらもおびえきって混乱の境地にいた。はじめは顔に付けていたキュウリのパックをむしゃむしゃと食べて、美容に気をつかう健康な女性であったはずなのに、布団から覗いては不気味に体を這いまわる「三つめの足」という悪夢を想像し、認識してしまってから、彼女はついに眠ることができなくなった。電球が切れてからは暗闇という不安がさらに募っていき、舞台装置として我々のための灯りがあるので、観客はベッドのみを取り出していることになんの違和感もないのだが、彼女にとっては寝室が寝室であることにすら疑いがうまれ、もはやベッドのみが自分が感知しえる世界の全てとなってしまい、例えばリビングにでも行って水を飲んだり、ママに助けを求めに行くことすらできなくなってしまう。ベッドの上で生まれる悪夢は、軍人を彷彿とさせるような彼女の叫びにより狂気じみた「春の怪物」へと姿を変え、混乱の境地にある彼女がきいた幻聴か、「ママ」、そしてその胎内、さらに胎児へと姿を変えて……というように、彼女はすべてを自分ひとりの妄想のなかから想像し、同時にそれが舞台上に創造されていくこととなる。
 彼女によって生み出された、いわば彼女自身の変身であるかのような悪夢のなかで、彼女が自身を自身として認識できうるのは、実際に自分の手でひとつひとつ、ゆっくりと自身の体を探りながら確かめてくことだけである。シーツを跳ね除けたときの、足が蒸れてなんとも言えぬ臭いのまとわりついた雰囲気が蔓延っているような感覚とは異なり、骨、肉、皮……と、自身に言い聞かせながら自らの身体というものを自ら感じている様子からは、熱に浮かされるような延々と続く鬱屈さのなかに、揺れ動く己の芯、アイデンティティを固定しようとする姿が見られる。
 物語は、彼女、つまり人間の誰しもが心の中にもちうるだろう不安、その想像、そしてそれをあたかも実体験したかのようになる妄想、最後にはその状態が持続されていく悪夢といったような事柄が、舞台装置としてはたいへんに簡潔かつ省スペースの上で行われている。猫の「アリス」は唯一つのセットであるベッドの下の、牢獄とも屋根裏ともいえるような暗く、鬱屈とした場所で、彼女によって発見される。そして彼女は、「おいで、アリス」と声をかけた。疲れ果てた悪夢のような猫を抱いて、そこから抜け出し、ゆっくりと階段を昇る。これはむしろ、猫という視覚化された「彼女自身の悪夢」であり、夜はいまだに彼女に訪れ続けているが、彼女はもう取り乱して枕を投げつけるようなことはしない。闇を見つめて、ゆったりと感じている。病的で、ちっぽけで、繊細なこの時間を、我々は「孤独な」彼女としばらく(勝手に)共有することとなる。終演を迎え、「彼女」がサウサンのなかからいなくなってからも、悪夢はその余韻を我々の内面の中に気づかせ、新たな悪夢が芽吹くのを待っているのだ。