劇評講座

2017年9月19日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2016■入選■【火傷するほど独り】番場寛さん

エディプスの孤独としての「火傷するほど独り」

 レバノンで生まれカナダに移り住み、ルパージュという実在の劇作家を敬愛している人物という伝記的な事実の側面をそのまま本人が演じているが、ハルワンは「ロベール・ルパージュのソロ作品におけるアイデンティティに関する空間としてのフレーム」という題の博士論文を準備しており、そのためにサント・ペテルブルクに行こうとする。
しかしルパージュはすでにアメリカに帰らなければならなくなる。そこまで進んだときこれはいつまでもあらわれない「ゴドー」を待つ二人の浮浪者と同じく会えないルパージュを求めて彷徨い続ける主人公の物語かと思わせるが、とんでもない展開を見せる。
 「アリス、ナイトメア」を観る前にも独り芝居は対話劇と比べると面白くないのではと思った。
 言葉が発せられるのはモノローグかダイアローグの二種類しかないという当たり前のことは、考えると不思議だ。演劇において、普通はダイアローグが中心となるのは、ある思索や発想が否定され、さらにその否定に対し別の考えが提示されるからであり、弁証法的な展開が心地よいからである。
 モノローグを聞く辛さはその展開がないことであり、いわゆる「他者」の不在に起因している。従って独り芝居でも、その発話が「他者」の発話と混じり合う工夫がなされるのが普通である。ベケットの『ゴドーを待ちながら』での二人の浮浪者がゴドーを待ちながら交わすとりとめのない会話が面白いのはまさに対話の面白さなのだが、対話ができない独り芝居ではどうするのかという問いへの一つの解決方法が、「クラップ氏の最後のテープ」で見せたテープに録音した自分の声である。それにより自分の声でありながら、時間を隔てた過去の自分の声を「他者」の声として聞くことができ、対話と同じ効果を生むことができた。
 では、このSeulsでは、どのようにモノローグで、ダイアローグを成立させることに成功しているであろうか?それは、まず、ベルが故障しており鳴らなくなっており、留守電機能が働いてしまう電話である。最初にハルワンが、不在を告げる自分のメーセージを聞き、次に他人のメッセージを聞くことになる。また、相手の電話に出る時も、最初から自分から電話を掛けるときも、観客には聞こえない相手の発話を相手に話す声が台詞として流れる。電話という装置は、録音したテープと同じく、モノローグをポリフォニックなダイアローグに変換する装置と言えよう。
 登場人物の声の複数性は、視覚的複数性によって支えられている。部屋の壁に映し出される自身の姿はまるで幽体離脱のようで、それは彼の孤独をより強調する。そうした映し出される姿でもっとも驚かされたのは、ハルワン自身の黒い影が壁に映し出される場面である。このハルワンの黒い影は壁に映し出された彼の実写の映像以上に生々しく独立した生き物のように舞台を移動した。実写のハルワンが時間的に過去の彼だとしたなら、黒い影が生身のハルワンの傍らで自由に動き回る姿は、彼の無意識が体を得た、まさしく彼の分身であるように見える。
 最後の方で全身インクまみれになったハルワンがナイフで目を切り裂く場面ではエディプス王を演じていると思われ、何度か台詞としても映像としても出てきたレンブラントの絵「放蕩息子の帰郷」のことを考えざるを得なくなる。
 ジャック・ラカンが「エディプスはエディプスコンプレックスを持っていなかった」と指摘したように、エディプスは神託に下されたように自分が父を殺すことを避けようとして自分が育てられた国を出たのだった。
 ハルワンが幻想の中で、脳溢血で倒れてベッドに横たわる父親に語りかける場面と、それが最後に反転し、意識を失って語りかけられているのはハルワンの方であることが判明する場面の父と子の関係は、エディプスコンプレックスとは真逆の、互いに相手を思いやる姿を表しており、フロイトのエディプスコンプレックス概念への疑いさえ生まれるほどだ。
 この作品において観客が最も驚くのは最後に、手だけでなく全身を使って透明な板にインクをなぐりつけ抽象画のような絵を描く場面である。狂ったようにも見えるが、彼の全身から沸き起こる「症候」をたたきつけているように見えた。
 不思議なのは、自己のアイデンティティを求めることが限りなく自己を増殖させることになるという逆説である。普通は意識的な主体が記号を操作して何かを表すという考えを逆転させ、ジャック・ラカンは、「あるシニフィアンはもうひとつの別のシニフィアンに対し主体を代わりに表す」と定義した。シニフィアンとは言葉の表現面(音や文字)を拡張したすべての「意味するもの」と考えたい。
 キリスト教徒に対するイスラム教徒、アラビア語に対するフランス語、父親に対する息子、レバノン人に対するケベック移住者というシニフィアンでハルワンを表し、彼が全身で板や透明なボードに塗りつけて描いた絵は、彼の生の軌跡、彼が生み出したシニフィアンであり、それはレンブラントの具象画に対して、ハルワンを代わりに表している。ハルワンという主体の自己同一性は単数では表されず絶え間なく増殖するseuls(複数のたった独り)という結果としてしか表され得ないということをこの作品は示している。