劇評講座

2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■入選■【腹話術師たち、口角泡を飛ばす】長谷川真代さん

カテゴリー: 2017

レイプ的自慰行為の先にあるもの

 芝居の幕切れ、彼女(彼)は自らの腕にはめたマぺットの内部に、もう片方の手を静かに少しずつゆっくりと差し込みはじめた。その行為の辿り着く先を、我々観客は目を釘づけにして見守る。洩らした吐息と「結末は思い出せないの」という言葉を残して芝居は唐突に終わりをむかえる。照明が落ち、舞台上が闇と静寂に包まれても、我々はお決まりの拍手ができずにいた。「果たしてこれでこの劇は終わりなのだろうか?」血液を脈打たせながら平静を装っていた観客は、期待の昂ぶりに終止符を打たざるをえなかった。自らを彼女(彼)に投影していたのに、その利那、鮮やかに現実に引きずり戻されたのである。
 多くの大人は幼少期、ぬいぐるみなどの人形を使ったままごと遊びをした経験があるだろう。あこがれのキャラクターを、なりたい自分を、人形に投影する事で、別の人生を楽しむ。しかし、この大人の遊戯はそんななまっちろいものではない。
 人形を遣っているのも、手を差し込んだのも、正真正銘、まぎれもなく、彼女(彼)のごっこ遊び=ひとり芝居である。しかし、私はその自慰行為を見せつけられた時、心の表皮をザラリとネコの舌で舐められたようなえもいわれぬ快感を覚えた。それは、カート・コバーンの人形が劇中「レイプミー」と歌い叫ぶように、他者からの支配を快楽とし、従属という安堵できる道を求めてしまう人間の性(さが)が、この自慰行為によって具現化された事に対するとまどいと、性(さが)を皆が飼いならしているのだという事実を肌で感じられた喜びだったのかもしれない。
 『腹話術師たち、口角泡を飛ばす』は、泡を飛ばしているのは人間なのか人形なのかを錯覚するような舞台であった。日本の人形浄瑠璃のように、人形の操作に集中できる人形遣いと、人物の言葉や感情を表現する義太夫とが居るわけではなく、腹話術は全てを一人で担っている。にも関わらず、人形を遣う遣い手は消え、舞台上には人形と人間の輪郭のみが浮かび上がった。人形の人格と自身の人格を分離し演じ分ける。その見事な乖離的人形遣いには舌を巻いた。
 腹話術師達は「わたしの芝居をみてほしい」と言い、人形との“ふたり芝居”を演じる。「ファック!」「オレニ嫉妬シテルンダロ」「私の芝居がはじまったら、人形を殺して」…。とてもとても間違ってもお子様には見せられない“ひとり芝居”の連続である。
 人形劇は人形という無機物が人間という有機物を介し、生きた存在となる。遣われる側の彼らが、時に人間を遣う支配者となる。しかし、それは間違いなく人形遣いの手によるものであり、DollをPuppetにするのは生きた人間であるところの人形遣いである。人形遣い達は犯し、侵されながらも人形に命を与え続ける。そのひとり芝居を止めたら、生きる術を見失うのではないかと思わせるほどの脆さと危うさを孕んでいる。
 いかにも腹話術の人形の様相を呈した人形、口パク方式のぬいぐるみ風のマペット、オブジェクト的な、遣わなければ人形とは思えない人形など、様々な人形たち。そして9人の人間達。人形は、腹話術師たちの相棒、商売道具、友人、自分自身…と居所を変える、変幻自在のアクターだ。それは、我々のimaginationが物言わぬ彼らに生命を吹き込み、彼らを生きた存在としてcreateしたからであろう。受け取る我々の意識の中を、人形は自由に泳ぎ回り、かぎまわり、くすぐり、眼前で起こる事象に結びつける。自信、欺瞞、不安、嫉妬、性欲、偽り…口角泡を飛ばす人間達を嘲笑い、憐み、楽しむ人形の姿がそこにはあった。かの有名な命を欲しがるあやつり人形とは違う。舞台上の彼らは人形である自らに満足しているのだ。人間達に自らを生かし遣わせる事の快感を覚えさせ、人形劇をさせる。我々はその心地よさに抗えず、人形たちの策に溺れていく。
 この芝居には、出来過ぎたおとぎはなしのようなストーリーは無い。人形たちと人間達によるごっこ遊びが羅列されるのみである。それは今日を生きる我々の暗部を滑稽に、痛烈に曝け出す。遣っているのはダレカ?遣われているのはダレカ?ツカッテイルのか?ツカワレテいるのか?真実なのか虚偽なのか?現実なのか妄想なのか?本音なのかタテマエなのか?…人形劇という自慰行為と他者の内部に浸食したいレイプ的願望が混在し、錯綜する。
 実際にあるという腹話術師たちの国際会議から着想し構成されたというこのお芝居は、我々が他者に暴かれたくない内部に、まんまともう片方の手を少しずつゆっくりと差し込ませた。その行為の辿り着く先、その内部には果たして一体何があったのだろうか。結末はわからない。きっと「結末は思い出せない」のだ。