政治家の失言にはいつも辟易としたり憤ったり、その都度暗澹たる気持ちを味わうものだが、私にとって今村前復興大臣の発言の数々は比類ない悲しみを呼び起こすものだった。記者の質問に怒声をあげ、「自己責任」と発言した姿は被災者を突き放すようにしか見えなかったし、死者の数を読み上げる声は冷徹そのものだった。その時の彼、そして背後にある永田町には、決定的に、とても大切な何かが欠けていた。それは何だったのか。疑問符が残るなか、私は静岡へと旅立った。
夜の駿府城公園は、祭りの後のような寂しさと静かな興奮に包まれていた。
ゴールデンウィークの匂うような人の気配が濃厚に残るその場所に、『アンティゴネ』の舞台装置はブラックホールの如く大きな口を広げて観客を待っていた。
水を張った底なし沼のような舞台を往来する白衣の演者。コロスであろうか。客席が人で満ちてくるのと同時に、夜の帳がひそやかに落ち、幕が開いた。
古代芸能を思わせる太鼓のリズムが、海流の果てからやってくる。潮の流れに沿って現れるのは小舟に乗った一人の僧侶である。彼が祈りの時間を紐解いたとき、私は直感した。―ああ、ここは多くの人々の命を奪った大波襲う我々の島国なのだ―と。そう思うと、背筋がゾクッと凍りついた。水辺からむき出しになった左右と中央、三つの岩壁が三陸沖の海岸に見えてくる。
父オイディプスの死後、妹イスメネと共にテーバイに戻ったアンティゴネは、二人の兄ポリュネイケスとエテオクレスの争いに巻き込まれる。兄弟は相討ちとなるが、支配者クレオンはポリュネイケスを反逆者とみなし、屍を葬る事を禁じてしまう。アンティゴネはその命令に背き、人々の見ているなかで兄の埋葬を行う。
中央の岩壁に燦然と座すアンティゴネ、上手にクレオン、下手にクレオンの息子ハイモン。中心的配役のそれぞれの人物は、決して交じりあうことはない。なぜなら深く暗い潮の流れに隔たれているからである。そこを往来できるのは、船上の僧侶と盆の踊りを舞うコロス―いわば、幽玄の存在のみである。
兄たちの平等なる弔いをアンティゴネは言葉を尽くしてクレオンに訴えるが、クレオンもまた巧みに言葉を操り、それに抗する。不思議なのは、アンティゴネとクレオンによる言葉のディスコミュニケーションは終始埋まることは無いが、背後に響く太鼓の音とコロスが舞う盆の踊りは、いかにも自然にすべての人間に寄り添う点である。
人類学者の川田順三は、著書『音・ことば・人間』のなかで、アフリカのモシ族による<太鼓言葉>を紹介している。モシ族には、「音楽」という言葉はない。なので、この<太鼓言葉>は、もちろん音楽ではない。ただし、「音」を指す言葉として、メッセージという意味の「コエガ」と、雑音という意味の「ブーレ」がある。そして、音と、踊りと、そこから生まれる恍惚感、あるいはそういった全体を差して、「デーム」と言う。
『アンティゴネ』の物語が、アンティゴネ、クレオン、ハイモン三者の死という終息へと向かい、僧侶の流す送り火と、盆の踊りが、クライマックスである壮大な「弔い」を創出したとき、私はこの舞台の巨大な「デーム」に包み込まれるのを感じた。そうして、あたたかい涙がこぼれ落ちた瞬間、静岡に旅立つ前に感じた疑問の答えを得たのだった。―そうだ、あの時の永田町には「弔い」が欠けていたのだ。
ネアンデルタール人の時代まで遡って、人間にはまず「法」より先に「弔い」があったのではないか。「言葉」より先に「感情」があったのではないか。
アンティゴネの訴えかけるような死は、急速な社会の成熟とグローバリゼーションにより、人と人、国と国、宗教と宗教など、様々なディスコミュニケーションを抱えた現代の私たちに、決しておろそかにはできない人間存在の<核>とは何かを突き付けてくる。それは我々一人一人に与えられた、宝の小箱のようなものであると思う。その小箱を失えば、たちまち生命の死にも匹敵する尊厳の消滅が起こるのであろう。
法は人を守りもするが、使い方を誤れば消し去りもする。
この国の政治の中心地では、共謀罪を筆頭に、歴史という死者への「弔い」の心を忘れた法が、今まさに成立しようとしている。
あの夜、駿府城公園を包み込んだ祈りは一瞬ではない、永遠に続かなければならないのだ。
『アンティゴネ』の舞台で起こった、演劇でしか体験できない「デーム」は、人間本来の尊厳を原始のレベルで我々に思い起こさせると同時に、言葉を越えたコミュニケーションの在り方を示唆してくれた。そこに私は、未来への希望を見つけ出したいと思うのである。