未来を見つめる目―『アンティゴネ~時を超える送り火~』を観て―
宮城聰演出作品『アンティゴネ~時を超える送り火~』(以後『アンティゴネ』と記す)は死者たちの物語であり、この芝居で語られる言葉は死者たちの言葉だ。ここで言う「死者たち」というのは、単に芝居の中で死んでいく登場人物たちのことだとか、原作者ソフォクレスが生きた約2500年前の古代ギリシャの人々のことだけでなく、人類が誕生して以来死んでいったものたちすべての言葉だと言うことができるかもしれない。
舞台は法衣を纏ったひとりの僧侶が、白い衣装で身を包み水に覆われた舞台上を彷徨っている者たち〔=霊魂たち〕にそれぞれ劇の役割を与えるところからはじまる。霊魂たちはある者はアンティゴネとなり、ある者はクレオンとなり、またある者は登場人物たちの声=言葉となり、ある者は楽を奏でる。役を与え、役を演じるというこの行為は、あたかも演劇の原初的体験のようでもある。
今回の舞台で特徴的なのは、中央に聳える大きな岩だ。アンティゴネが死を迎える場所でもあるこの岩は、霊魂たちを呼び寄せる役割を果たしているようにもみえる。ジャン=ジャック・ルソーは社会をエリート(政治家)と民衆(傍観者)の二つに分けてしまうような、排他的な性質を持つ近代演劇や劇場空間を批判しつつ、次のように語っている。「広場のまんなかに、花で飾った一本の杭を立てなさい、そこに民衆を集めなさい、そうすれば楽しいことが見られるのです。もっとすばらしいことをしなさい。観衆を見せることにするのです。かれら自身を登場人物にするのです」(『演劇について―ダランベールへの手紙―』、今野一雄訳、岩波文庫、1979年、225頁)。『アンティゴネ』における舞台中央に聳える岩は、ルソーの言うところの「一本の杭」なのではないだろうか。引用文の「民衆」「観衆」という言葉を「霊魂」に置き換えれば、ルソーの言葉はそのまま今回の舞台の構造をそのまま示しているようだ。岩の下に集まった霊魂たちはもはやただこの世の世界を黙って見つめる傍観者であることをやめ、彼ら自身が登場人物となって死者の言葉を語りはじめるのだ。この岩はまた、盆踊りの櫓のようでもある。実際、劇中何度も中央に聳える岩を軸にして役者たち〔=霊魂たち〕がゆっくりと輪を描きながら舞う。それはちょうど輪廻を象徴しているようでもあるし、その場の一期一会を祝している、寿いでいるようでもある。
また、舞台上を覆う水は死者を清める聖水であると同時に、死者を舞台上に留め、生者も死者も等しく映し出す鏡でもある。そして最後には、死者たちをあの世へと送り還す燈籠流しの川(この世とあの世との架け橋)としての役割を担う。舞台上の水は昇華と下降、流と留という相反する二つの属性を対立させるのではなく、波打ちながら溶け込ませる効果を持つ。そこでは生者と死者は分け隔てられることはない。舞台美術の構造そのものがアンティゴネの思想を反映しているといえるだろう。
ところで、静岡滞在中、静岡市美術館で開催中の「アルバレス・ブラボ写真展―メキシコ、静かなる光と時」を観る機会を得た。ブラボの写真はどれも死の影が濃厚に映し出されているのだが、その中で一枚だけ直接死者を撮影した写真(「ストライキ中の労働者、殺される」)があった。写真の中の男(死者)は血を流して仰向けに寝そべり、半開きにされた眼は虚空を見つめているようにみえた。この時不意に、「死者は誰よりも未来を見ている」という言葉が到来した。そして、直感的にそれは確かだと思った。死者は忘れ去られた過去などではなく未来を孕んでいるのであり、ブラボの写真に写し出された男はわれわれには見えない未来を見つめ、そしてわれわれに語りかけているのだと。
『アンティゴネ』で語られる言葉もまた、実は未来の言葉だったのではないだろうか。上演パンフレット中の大宮勘一郎の評論に「アンティゴネ・マシーン」という言葉があるが、この「死の力」の反復作動の中で過去は加速度的に未来となり、現在へと到達する。死者は死んだその瞬間から未来を見つめ、死んだ言葉はその瞬間から未来の器となる。未来の言葉とはけっきょくのところ、まだ生を授かっていない言葉のことだ。この生なき言葉を語れるのは生なき者だけだが、そこに生を吹き込むことができるのは生者でなければならない。死者たちの言葉を受け取り、そこに生きた者たちが生を吹き込む。『アンティゴネ』はそのような生者と死者との時を超えた対話でもあるのだ。そして、われわれはいま、彼ら(死者たち)の言葉〔=未来〕にどのような生を吹き込むことができるのかが試されている。ギリギリの状況の中、ひとりひとりが未来に対して一体何をできるのか―それを考えていくことが、彼らに対するほんとうの弔い、ほんとうの鎮魂なのではないだろうか。