劇評講座

2017年12月26日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2017■選評■SPAC文芸部 大岡淳

カテゴリー: 2017

 SPAC文芸部スタッフとして、ここ10年ほど、観客の皆様から寄せられた劇評を拝読して参りました。毎回どの投稿も、本来なら「言葉にできない」はずの御自身の観劇体験を、あえて言葉にして他者に伝達しようという熱意に満ちたもので、心打たれます。今回もやはり感動いたしましたが、それとともに、年を経るうちに変化も確実に生じていると感じました。
 それは、ここ数年の傾向でもあるのですが、「可もなく不可もなし」という印象の劇評が大半を占めている、ということであります。なぜ「可もなく不可もなし」なのかと申しますと、作品の内容の紹介や、作品の背景の解説は、皆さんきれいにまとめておられるのですが、そこで終わってしまっているのですね。しかし、劇評はあくまで批評であって、レビューとは異なります。もちろん作品についての紹介・解説は、劇評の果たすべき役割でありますが、それに加えて、作品に対する評価を下さねば、劇評としては完結しません。結局その芝居は、良い作品だったのか、そうではなかったのか。その良し悪しは、もちろん突き詰めれば主観的な判断に過ぎないわけですが、その主観的な判断をなるべく客観的に説明してみようという危うい綱渡りが、劇評(のみならず批評一般)の醍醐味だと私は理解しています。
 そして、そのような評価を下すための足場となるのが、作品に対する解釈だと思います。創作家の意図を超えて、自分の眼にはその作品が、何を表現していると映ったか。そこがうまく言語化できれば、おのずから評価も決まってくるはずです。今回の投稿の多くは、この解釈についての叙述も弱く、創作家自身が掲げているコンセプトを素朴になぞっただけ、という印象にとどまりました。
 以上まとめますと、劇評には原則として、①作品の紹介・解説、②作品に対する解釈、③作品に対する評価、という3要素が不可欠であろうと思われます(例外はもちろんいくらでもありうるので、あくまで原則です)。しかし、今回寄せられた投稿劇評の多くが、①を丁寧に叙述するだけで終わってしまっていると感じたわけです。
 なぜ多くの投稿が①でとどまってしまったのか、その原因は、活字媒体の影響力が低下しており、劇評を書く際に、ネットがお手本となっているからだろう、と推測します。ネット上で演劇作品について書かれた文章の多くは、劇評ではなくてレビューです。一観客が他の観客に対して、ネタバレにならない程度に、作品の概要と感想を簡潔に説明した短文です。これしか手本がないという状況では、「劇評のレビュー化」が進んでしまうのも仕方がないことなのかもしれません。確かに、一般観客にとって、本格的な演劇批評を目にする機会が減少しているのは間違いありませんが、他の芸術分野の批評文を手本にすることもできましょうし、投稿者の皆さんにはぜひこれを機に、本格的な批評に触れていただきたいと感じた次第です。
 さて、そういう中で、かろうじて突出していると感じられたのは、高須賀真之さんの『アンティゴネ ~時を超える送り火~』評と、西史夏さんの『ダマスカス While I Was Waiting』評です。この2本には共通点がありまして、それは、他の芸術作品を引き合いに出しているということです。前者は静岡市美術館で開催されていた『アルバレス・ブラボ写真展』を参照し、「死者は誰よりも未来を見ている」というメッセージを『アンティゴネ』に投げ返しています。後者は北村想の戯曲『寿歌』『ザ・シェルター』を参照し、危機的な状況と生命の輝きが同居する「おおらかさ」を『ダマスカス』に投げ返しています。これによって、創作家の意図を超えた作品解釈が提示されていると感じました。考えてみれば当たり前のことですが、ある作品の良し悪しを論じようと思えば、比較対象が必要です。ただしその比較対象は、学問的叙述とは異なり、批評の場合は自由に選択できます。皆さんが、これまでの人生で様々な作品(もちろん演劇以外のジャンルでもよい)との出会いから受け取った疑問や驚きや感動を媒介としたときに、ある演劇作品に対する見方は、一段深まる(あるいは飛躍する)のだろうと思います。高須賀さんと西さんの劇評は、そのことを教えてくれていると思います。