劇評講座

2018年7月28日

秋→春のシーズン2017■優秀■【オセロー】高須賀真之さん

カテゴリー: 2017

永遠の切断面―『ミヤギ能 オセロー~夢幻の愛~』より

 『オセロー』はいうまでもなくシェイクスピアを代表する悲劇である。だが、原作が将軍オセローの心の葛藤を主題としたのに対し、今回の舞台『ミヤギ能 オセロー~夢幻の愛~』では、潔白でありながらオセローに殺されたデズデモーナ(の霊)の孤独を主題に描き出した。
 この舞台では能の形式を用い、デズデモーナの霊(シテ)がヴェネチアから来た巡礼(ワキ)に語りかけるという構造を取っている。霊が語りかけるという構図は、たとえば目取真俊の短篇小説『面影と連れて』にも見られるが、共通していえるのは、霊がこの世とあの世の間を孤独のうちに彷徨う姿だ。この霊は死んでなおかつて愛した人と再会することも叶わず、かといってどこかへ行くこともできず、生と死の狭間に留まり続ける。そこは「永遠」というにはあまりに曖昧とした空間だ。デズデモーナの霊からは「いつまでここにいなければならないのか」という悲痛な叫びが聞こえて来るようだ。
 ところで小田島雄志は『オセロー』を「情念(愛)と情念(嫉妬)の格闘」という葛藤と、「愛は他者を知りたいという欲望と知ることが不可能に近いという絶望との葛藤」という二つの葛藤から成る悲劇だとし、「その二つが分かちがたくもつれあって呼び起こす嵐は、イアーゴーの策謀の計算の外にある。次元がちがうのである」と読み解く。であるならば、オセローとデズデモーナの愛は永遠というものの範疇からも外れているのではないか。
 ここにおいて、西脇順三郎『えてるにたす』中の詩篇「菜園の妖術」の、次の一節を想起させられる。「ひとりの人間の歴史は人類の歴史だ/永遠という夢は/ただ一つの神秘だ/存在するということも/存在しないということも/永遠ののばらの生垣の外にある/死は復活であって復活は死だ」〔「/」は改行を示す〕。
 あるいは田村隆一「四千の日と夜」中の次の一節。「一篇の詩を生むためには、/われわれはいとしいものを殺さなければならない/これは死者を甦らせるただひとつの道であり、/われわれはその道を行かなければならない」。
 宮城聰は演出ノートの中でオセローがデズデモーナに手をかけてその首を絞めようとした瞬間に「いちばん相手に近づいていた」とし、そこに「希望」を見い出しているが、そうであるなら「一篇の詩」=ひとつの愛を生むためにはデズデモーナの死は避けられないものであったといえる。そしてオセローがデズデモーナに手をかけた瞬間に生まれた愛は永遠となり、同時に永遠から永久に逸脱する。「永遠ののばらの生垣の外」にのみ存在する(つまり存在しながら存在しない)愛。その先にあるのは死と復活の果てしもない繰り返しだ。デズデモーナは死んだ。オセローも死んだ。だがデズデモーナは再び甦り、この世とあの世の狭間に閉じこめられる。なぜなら「いとしいもの」は殺されなければならないがゆえに、永遠に何度も甦るからだ。そこにあるのは「夢幻の愛」ゆえの絶対的な孤独だ。
 また、この舞台において能の形式だけでなく夏目漱石の「白菊にしばしためらふ鋏かな」という句が通奏低音として流れていることにも注目したい。ここで重要なのは、漱石の句の言葉が終盤の台詞として織り込まれていたことよりも、むしろ俳句の形式が舞台の上に流れていることではないだろうか。詩人の石原吉郎は俳句について次のように語っている。「俳句は否応なしに一つの切口とみなされる。俳句は他のジャンルに較べて、はるかに強い切断力を持っており、その切断の速さによって、一つの場面をあらゆる限定から解放する。すなわち想像の自由、物語への期待を与えるのである。そこでは、一切のものは一瞬その歩みを止めなければならない。「時間よ止まれ」という声が響く時、胎児は産道で息をひそめ、死者に死後硬直の過程は停止する。愛しているもの、憎んでいるもの、抱擁しているもの、犯罪を犯しているもの、一切はその瞬間の姿勢のままで凍結しなければならない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」〔石原吉郎「俳句と<ものがたり>について」、傍点部は引用者による〕。オセローがデズデモーナの首に手をかける瞬間は「その瞬間の姿勢のままで凍結」する。いかに時間が流れ、歴史が流れようが、その一瞬は永遠に永遠の外にある。それは永遠の切断面だ。それゆえにこそデズデモーナの死と復活は宿命づけられており、またこの舞台は、デズデモーナの死にはじまり、デズデモーナの死で終わらなければならない。
 すべてを語り終えたデズデモーナは、かつて彼女の命を絶ったオセローの右腕と同化した自らの右手で、自分の首を締め上げる。だが漱石の句にあるように、その手はしばしためらうようにも見える。実際、直前の台詞(地謡)でも「ならぬ」(強い否定)と「ねばならぬ」(強い使役)との間で揺らぐ。この揺らぎはかつてのオセローの葛藤であり、またデズデモーナの霊の生と死の間の揺らぎ(あるいは瞬間と永遠の間の揺らぎ)でもある。そして「私も死なねばならぬ」という言葉と同時に、デズデモーナは再び命を絶ち、朝のひかりとともに消え去る。彼女の霊とともに、彼女の孤独も消え去ったのだろうか?あるいは、彼女の霊は再び私たちの前に現れてはかつての「夢幻の愛」をまた語り出すかもしれない(なぜなら舞台は何度でも甦る宿命を負っている)。だが、はっきりいえることは、ひとりの人間(あるいは霊)の語りとは、そのままひとつの歴史であるということだ。そして「菜園の妖術」にもあるように、「ひとりの人間の歴史」は私たち自身の歴史でもある。彼女の霊が再び現れるとき、そこにはきっと愛の痕跡があるはずだ。それは痕跡というよりも、むしろ嵐が去った後の爪痕とも言うべきものかもしれない。私たちはあまりのむごさに思わず目を背けるかもしれない。だがその爪痕もまた私たち自身の歴史であり、私たち自身が培いそして殺してきた無数の愛の残骸だ。私たちが私たち自身の歴史を、愛を忘れようとするとき、デズデモーナは再び現れるだろう。彼女は語る。彼女は死ぬ。私たちは殺す。そして私たちは生かされる。