劇評講座

2018年7月28日

ふじのくに⇔せかい演劇祭2018■優秀■【民衆の敵】高須賀真之さん

『民衆の敵』―孤立性に耐えるということ―

 信じていたものが簡単に裏返り、それに対抗しようと自分の信念を貫き通そうとしてますます過激となる。そして、逆に自分が嫌っていた者とおなじように自分もなってしまうがそれに気づかず、あるいは気づいていても気づいていないフリをして、結果的に対立が深まる。ここ数年の世界の状況を顧みると、どうもこのようなことの連鎖反応であるように思える。だれも自分の間違いを認めたがらず、相手の悪いところだけを徹底的に叩く。民主主義はいつの間にか自分に反対する人間をいかに力でねじ伏せるかという陰険なゲームのようになりつつある。
 『民衆の敵』はいうまでもなくイプセンの代表作だが、100年以上経ったいまも現代社会に当て嵌めて観られてしまうというのは、むしろ不幸なことなのかもしれない。とはいえ、イプセンの原作をそのまま演出したのでは、いまのわたしたちに強く訴えかけるものになるのは難しいだろう。オスターマイアー版『民衆の敵』では、イプセンを単なる古典とするのではなく、現代社会が抱える問題をダイレクトに劇に取り込んでいる。
それが端的にあらわれるのが、後半のストックマンの演説シーンだ。原作でも、傍観者たる民衆こそが諸悪の根源である、という衝撃的なメッセージが込められているシーンだが、オスターマイアー版ではそれに加えて現代における資本主義社会の限界を徹底的に批判する。「わたしが危機なのではなく、与えられた形式が危機なのである」「経済が危機なのではなく、経済が危機を与えている」という主張は、いまの世界状況を端的にあらわしている。
そして、この舞台の一番の目玉ともいうべき観客が議論に参加するシーンだが、私が観た回ではおそらく過半数の人がストックマン博士に賛同であった。また、公害問題をテーマにしているためか、石牟礼道子の『苦海浄土』に言及する観客もいた。実際、ストックマンに敵対する政治家や資本家たちの意見は、『苦海浄土』のなかで描かれるチッソ(水俣病の原因企業)側の人間たちの主張とおそろしいほど一致している(権力をもった人間というのは、おそらくおなじ言語をもつようになるのだろう)。なので、議論のなかで水俣病に関する言及に及んだことは自然な流れであっただろう。だが、水俣病に関する意見を受けてストックマン役のクリストフ・ガヴェンダが次のように問いかけたのに対し、観客はだれも答えることができなかった。「水俣病の後に、なにか変りましたか?」。ガヴェンダはつづけて問いかける。「変わるためには、あとなにが必要ですか?あとなにが足りないですか?」。この問いかけに答えられない状況こそが、いまのわたしたちが生きる世界なのではないだろうか。
演説シーンの最後、ストックマンは石(この舞台ではカラーボール)を投げつけられながら、「正義のためならなにをやってもいいんだ!」と叫ぶ。私個人はストックマンに賛同の立場だったが、このことばを聞いたときには恐怖を抱いた。「正義のためならなにをやってもいい」というのは、たとえば戦争をはじめたりおわらせたりする権力者たちの言い分と大差がない。日本が真珠湾を攻撃したのも、アメリカが日本に原爆を落としたのも、いわば「正義のため」だった。
「一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない」。石原吉郎は「一九六三年以後のノート」のなかでこのように書いた。数の力でひとりの人間を押し潰そうとする民衆に対するストックマンの怒りはなるほどもっともだが、だがストックマン自身もまた、民衆に訴えかける(「不特定多数」へ語りかける)ことで自らの思想を放棄してしまったのではないか、あるいは思想としての効力を失ってしまったのではないか。イプセンはそのことを見落としてしまっているのではないだろうか。奇しくも石牟礼道子は『苦海浄土』に関するエッセイのなかで次のように書いている。「ひとつの理念なり、思想的営為なりが、公共性を、市民権を、持つようになってくる、ということは、たぶん、よくないことにちがいない。思想とは孤立性をそのバネにするときにのみ自立しうる」(「自分を焚く」、『石牟礼道子全集・不知火 第3巻』、藤原書店、2004年、419頁)。
オスターマイアー版では、演説のシーンでストックマンが節約の重要性を語る。だが節約とは、たんに金銭的、物質的なことをいうだけでなく、「孤立性」に耐えるということ、いわば“自己の節約”が必要なのではないだろうか。イプセンの原作では、戯曲の最後に「たった独りで立っている人間こそが世界でいちばん強い」というメッセージ性の強い台詞をストックマンに吐かせているが、オスターマイアー版ではその箇所は削除されている。それどころか義父が買い占めた温泉施設の株を利用しようとする気配すら見せる。この最後のシーンはオスターマイアーなりのブラックユーモアだろうが、だがその方が自然なのではないだろうか。「独りで立っている人間」云々というカッコイイ台詞を吐かせるよりも、その場の状況で簡単に変わり得る人間の弱さを示すことの方が、逆説的に「孤立性」を得ることの難しさとその必要性を訴えかけてくるように思える。ストックマンはけっして正義のヒーローではない。そのようなヒロイズムを捨て去ったところからしか、ひとりひとりの思想を育み自立させることはできないのではないだろうか。