観客参加型演劇の可能性―『民衆の敵』を観て―
開演前から舞台にはある文章が投影されている。一読して意味が取りにくい。おそらくは、現代社会においてはコマーシャリズムによって私が私であることすら奪われてしまうといった意味のことが主張されているものと思われるが、繰り返し読まないとよく分からない。逆に言うと、繰り返し読まれるためにこそ開演前から提示されているのであろう。
イプセン原作の『民衆の敵』は、温泉が工場排水で汚染されていると訴える主人公が、巨額の対策費用に難色を示す当局や地元紙に発言を握りつぶされたため、住民集会を開くという話である。オスターマイアーによる演出の最大の特徴は、観客が住民集会の参加者となり、主人公や当局の説得の対象であると同時に発言も促される点にある。
しかし、私は2018年4月30日上演のものしか観劇していないが、本作は上演ごとの観客の意向に応じたマルチエンディングではなく、結末は決まっているようである。すなわち、主人公は「民衆の敵」として石(本演出では黄色と灰色のカラーボール)を投げられることになる。
となると、観客は、主人公にではなく、むしろ当局に共感を示さなければならない、そのように演出によって誘導されねばならないということになる。しかしこれは、実に困難なことである。イプセンが原作を発表した19世紀ならともかく、公害裁判を経験した今日の先進国において、公害の隠蔽による事後的な賠償費用及びブランド価値の毀損による損失は、事前に対策を講じた場合と比較して結局高くつくことは明らかであり、かつ、この手の演劇の観客層は、そもそも経済的動機を度外視してでも人道的動機に軍配を上げるであろう。すなわち、住民集会において石を投げられるのは主人公ではなく当局であろう。
そうはさせないためのオスターマイアーによる工夫が、主人公をいささかエキセントリックな人物に仕立て上げることであった。当日パンフレットに掲載された「演出ノート」においてオスターマイアーは、主人公の演説に「フランスのラディカルな極左・アナーキストが2007年に発行したビラに掲載されていた」「『来るべき反乱』というマニフェストの一部を挿入した」と述べている。開演前から提示されていた文章もその一部である。要するに、主人公は、公害に対策を講じるべきであるという当初の主張を超えて、思いつめるあまりに何やら資本主義あるいは現代文明そのものの根底的な批判に向かってしまい、その場で初めて主人公の主張に接する住民としては全くついていけない人物になってしまったわけである(もっとも、この劇を最初から観ている観客としては、主人公の当初の主張に科学的根拠があることを「知っている」のであるが)。そして、別の表現だったかも知れないが私の記憶によると「一掃してやる」という主人公の言葉尻をとらえて、自分の主張に同意しない者を排除しようとする主人公こそ民主主義を否定する「民衆の敵」であるとの当局の発言に繋げた上で、主人公への投石の場面へと移っていく。
これは、確かに現実に生じてきたことでもある。一部の活動家が、主張を先鋭化させるあまりに民衆から遊離してしまったり、あるいは政権幹部の発言を批判する野党やマスコミに対して政権側が「言論の自由を否定するのか」と批判したりといったことは、昨今でもそこここに目にしよう。本作は、そうした風潮に対して、冷静な討論の重要性を認識させるものととらえることも出来よう。
しかしながら、観客参加型演劇としては、主人公の主張を分かりにくくさせることで賛否のバランスを保とうとするのはやはり邪道ではなかろうか。主人公の主張そのものをめぐって観客の賛否が分かれるようには出来ないものだろうか。『民衆の敵』に即して言えば、なるほど隠蔽もやむを得ないのではないかと少なくとも半数の観客層を説得してしまうような演出は出来ないものだろうか。そして、観客自ら「石」を主人公に投げつけ、そして後になってから自分の中にそのような要素が存在していたことに気付いて自己嫌悪に陥らされることになれば、本作は真に傑作の名に値するであろう。
最後にもう一言。本作では登場人物の多くが喫煙者であり、主人公も例外ではない。これは、「嫌煙ファシズム」に対するオスターマイアーの抗議の可能性もあるが、内在的に首尾一貫させるのであれば、工場排水の害を訴えているはずの主人公の欺瞞性を描いていると解釈されるべきであろう。私としては、殺人場面などと同様、喫煙場面そのものはあっても構わないが、本当に喫煙しなくてもいいのではないかと主張したいところであるが、それはともかくとして、観客も含めて喫煙者はまだまだ多く、特に日本においては受動喫煙対策が飲食店の「経済的動機」を理由としてなかなか進まないという厳然たる事実がある。先に私は、イプセンの時代ならともかく現代においては公害対策は当然のことであるとして論を進めたが、それは楽観的に過ぎるかも知れない。それを思い知らされたのが主人公も含む喫煙場面であった。