秋→春のシーズン2018-2019劇評コンクールには、13篇の劇評の応募がありました。内訳は、『授業』5篇、『歯車』3篇、『顕れ』4篇、『妖怪の国の与太郎』1篇です。今回は全体にレベルが高く読み応えがあり、それだけに、審査するのもなかなか骨の折れる作業でした。
最も応募が多かったのも、また入賞した劇評が多かったのも『授業』評で(古典的戯曲に現代的演出を施した公演でしたから、比較的書き易かったということでしょう)、ここから最優秀賞に選ばれたのは高須賀真之さんの劇評です。この劇評は、殺された女生徒たちの名が叫ばれる終幕について、「『フェミニズム』という枠に括ってしまって論じることに、やや抵抗がある」と留保したうえで、服部真里子さんの短歌を手がかりとしながら、「人間が潜在的にもっている『暴力』性だったり、コミュニケーションの背後にある、相手をコントロールしたいという欲望だったり、そういった人間が人間として抱え持っているものから、いかに自由になれるか、ということへの、ひとつのレスポンス」と総括しており、上演に即しつつも評者ならではの思考を展開できている点を、審査員一同、高く評価いたしました。また、優秀賞に選ばれた小田透さんの『授業』評は、上演内容を丹念に追ったうえで、観客の心に疼く「悪しき予言が成就したという黒い喜び」に言及されている点を、評価しました。
『授業』評は、いずれも西悟志演出が付け加えた終幕をどう解釈するかがポイントになっていたと言えますが、そもそもイヨネスコがあえて登場人物に名を与えなかったのは、固有性が剥奪される時代状況への批評的視座に基づいていることは明白で、そもそも「不条理演劇」の「不条理」とは、二度の世界大戦によって露呈した〈大量死〉を反映した感覚ではなかったかと思われます(そして傍観者を装う共犯者にだけ「マリー」という名が与えられる皮肉!)。だとすると、西演出のように、死者の固有性を舞台上に召喚してしまう試みは、なるほど現代に通底する暴力性への告発と解しうると同時に、ともすると演劇的な「癒し」や「鎮魂」への回収、すなわち、「不条理」以前の演劇への撤退とも見えかねない、両義的な場面であると私などは感じました。評者の皆さんには、演出家の着想を自明の前提とはせず、それが果たして戯曲への解釈として妥当か否かを問い直し、そのうえで、肯定すべき点は肯定するというステップを踏んでいただければ、より説得力が増すのではないかと感じた次第です。
『顕れ』は、アフリカ大陸における奴隷貿易をテーマとした壮大な作品であり、これを批評しようという意欲だけでも賞賛に値すると感じましたが、とりわけ、戯曲の要点と演出の要点を峻別して全体像を活写したうえで、戯曲が孕む「神話的解決と歴史的未解決」というアポリアを、宮城聰演出は「前者の方向に引き寄せ」たと解釈したうえで、これに理解を示しつつも疑義を差し挟んだ、小田透さんの劇評を優秀賞に選出しました。
今回ひとつ残念だったのは、『歯車』評に、入賞に値する劇評が見出せなかったことです。前半では、話者の視点と観客の視点が重ねられ、後半では、その観客のドッペルゲンガーが現れたかのように、話者を演ずる俳優が舞台に登場するという、多田淳之介演出が設定した大枠に言及できている劇評がなかったのですが、まずは「舞台上で何が起きていたか」を、大きくつかみとっていただきたいと感じた次第です。
気迫みなぎる劇評の数々、どうもありがとうございました。ぜひまた挑戦して下さい。