劇評講座

2019年8月31日

秋→春のシーズン201-2019■入選■【妖怪の国の与太郎】小田透さん

カテゴリー: 2018

「愉快で奇妙な劇を批判的に楽しむために観客が知っておくべき2,3のこと」

 死神エルメスが死者である与太郎を閻魔大王の前にまで連れていく。ふたりはその道中でほかの死者たちや妖怪たちに遭遇し、邪魔されたり歓待されたりする。喪服を着たチャーリー・チャップリンのような間の抜けた死神のせいで、「ほっぺたのように赤い」与太郎の魂のボールが妖怪たちに盗まれてしまうこともある。しかし、魂をめぐる熾烈な争奪戦のようなものはない。すべてを包みこむコメディーの空気のなか、諍いすら喜劇的である。

 ジャン・ランベール=ヴィルドの『妖怪の国の与太郎』の笑いは総じて非言語的だ。サイレント映画的と言ってもいいかもしれない。宮城聰の二人一役(ムーバーとスピーカー)へのオマージュであるかのように、舞台中央の四角い平らな空間のなかでほとんど言葉を発することなく演技をする俳優たちに、舞台左手のオーケストラ・セクションを取り仕切る赤の帽子と緑の帽子の男女二人が声優よろしくアテレコする。予定調和的な笑い、予定調和の予定調和的な逸脱の笑いだ。たとえば、変装した子泣き爺は与太郎を騙し、走り去ろうとする与太郎の背中にのしかかるが、犬に尻を噛みつかれて退場する。このやりとりは計3回繰り返される。2度犬に噛みつかれるが、3度目は鮮やかに身をかわして反撃に出る。何の説明もいらない。見え見えのオチだが、わかっていても笑えてしまう。民衆娯楽的なものに漲っている生(なま)のエネルギーを劇場に注ぎこみ、その生命力で劇場のお行儀のよさをくすぐり倒すこと、それこそ、ランベール=ヴィルドが試みたことだったのではないだろうか。

 だが、こうした問答無用のベタな笑いは、夢幻性と混ざり合っていた。ランベール=ヴィルドの劇が作り出す捧腹絶倒の愉快さは、わたしたちが普通そういう類(たぐい)の愉快さと結びつけないようなものと結びつけられていたのである。卑俗なものから幻想的なものまでが一杯につまったおもちゃ箱のようだった。与太郎の着ていたパジャマは演出家にして俳優であるランベール=ヴィルドの私物で、絶対的な舞台衣装なのだという。そういえば2018年ふじのくに⇄せかい演劇祭の『リチャード三世』で道化芝居風のリチャード三世を演じたとき、彼は同じパジャマを着ていた。パジャマは夢の世界にいちばん近いものであるらしい。見世物小屋の奇妙さや道化の愉快さが、夢の世界と地続きになる。

 『妖怪の国の与太郎』には文学的な、間(インター)テクスト的なほのめかしもあった。死神エルメスはダンテに言及するが、『妖怪の国の与太郎』はコメディーに移調された『地獄篇』である。キャラクター力学の観点からすれば、エルメスがガイド役のヴェルギリウスで与太郎がダンテだが、エルメスはチャップリン的で、与太郎はパジャマという道化服を着たクラウンだ。主人公ふたりがボケる。犬を演じることで舞台に介入できるようになるアテレコのツッコミがなければ、エルメスも与太郎もボケ続けるばかりである。妖怪にしても、おどろおどろしさではなく、B級ホラー映画の良い意味でのチープさが強調されていた。妖怪は恐怖の対象ではない。妖怪たちは楽しく生きる存在なのだ。それは演出家が大いに愛しているという水木しげるの描く妖怪のイメージ、死ぬことも悩むこともなく毎晩墓場で運動会を楽しむというノリである。場面はパタパタと軽快に移り変わり、そのたびに別の妖怪が登場する。紙芝居をめくるように、次から次へと別のドタバタ劇が演じられる。だから閻魔大王に会いに行くという恐ろしげな物語のはずなのにまったく悲壮感がない。

 しかし、ここに奇妙さや愉快さしか感じないことは、ランベール=ヴィルドの演劇の奥深くに秘められた哀しみや憧れを見逃すことである。道化の笑いが複雑なのは、彼がわたしたちを笑わせるからだ。わたしたちが彼を笑うことができるのは、彼が意図的に自らを低くするからだ。笑われる自由をわたしたちに贈与してくれるからだ。この卑下という贈与にこそ、道化の職人技がある。それのない道化の笑いはどこか卑しい。そうした笑いの根底には、道化を見下すことで生まれる優越感がわたしたち観客の側にあるからだろう。次のように言い換えてもいい。道化的な奇妙さや愉快さがただ奇妙で愉快であるとしたら、それはたしかに道化演技の未熟さのせいではあるが、それ以上に重要な要因は、わたしたち観客のほうに、わたしたち観客と道化俳優の関係のほうにある。
 俳優と観客の距離が近いSPACでは、常連であればあるほど、俳優たちの別の演技の仮面を知っているだけではなく、俳優たちの素顔すら知っている。そのような状況では、舞台での滑稽味は、演技が単独で作り出すものというよりは、演技と素顔のギャップの相乗効果で作り出されるものになってしまう危険がある。笑いが僻目のようなものになってしまう。学芸会に出る我が子の演技に感動する親バカ、自分の推すアイドルやタレントを応援するファン心理と言ってもいい。これが絶対に悪いことだとは思わない。俳優にたいして、演劇以外の思い入れがあることは、決して悪いことではない。しかしそれ(だけ)で良いのだろうか。わたしたちはもう少し賢く、批判的になるべきではないだろうか。観客が異化される必要がある――生身の人間としての俳優に感情移入しすぎないように。

 適切な距離感が必要だ。しかし、遠ざかるだけでは不充分でもある。遠ざかりつつ近づく、近づきつつ遠ざかる、そうした困難で流動的な二重性がなければ、俳優も観客もマンネリズムに陥ってしまいかねない。『妖怪の国の与太郎』は夢の物語ではあったし、開演前から聞こえてくるミンミンゼミの鳴き声や舞台の上にぶらさがる提灯の列は、具体的なものに繋ぎとめられていない一般的な郷愁を刺激していた。しかし、この物語は本質的には死の物語であり、奇妙な愉快さをかき乱す具体的な歴史的闖入者がいた。日本軍の亡霊だ。それはおそらく、水木しげるの反骨精神にもっとも接近した瞬間だったと思う。しかし、表面的な愉快さに目を奪われて、この「歴史」の傷痕に目が行かないのだとしたら? 夢の劇を夢のように楽しむ権利は否定したくないが、劇場という夢から覚めた観客が夢の内容をまったく覚えていないとしたら? わたしたち観客は、享楽的で、なおかつ、批判的にならなければならない。劇の提起する問題と希望を、わたしたちの日常生活に移植できるようにならなくてはならない。そうすることによってのみ、劇場は、この世界をただ解釈して表象するだけではなく、それをラディカルに変えていくための原動力のひとつになれるはずである。奇妙で愉快な『妖怪の国の与太郎』は、そうした真っ当で真面目で問題を暗黙の裡に投げかけていた。