劇評講座

2019年8月31日

秋→春のシーズン201-2019■入選■【顕れ ~女神イニイエの涙~】小長谷建夫さん

カテゴリー: 2018

 アフリカを舞台とした人類史上最大にして最悪の奴隷貿易。アフリカ大陸で捕縛され奴隷としてアメリカやその他の地へ売り飛ばされ、結果として無残な死を迎えざるを得なかった人間達。その魂を鎮めるために、我らがSPAC芸術総監督宮城聰が一肌脱ぐ、つまり芝居を演出することになったと聞いた時、その勇気に敬服すると共に、その無謀にため息をついたものであった。
 ため息のわけは、奴隷貿易の影響は今なお生々しく世界に残存しているからであり、また奴隷そのものは人種差別という人類の救い難い罪悪に直結しているからでもある。
 唯一無二の命を理不尽なる暴力によって残虐に奪われたとするならば、その魂が浮かばれるはずはない。仮に魂が存在しなくても、最愛の人を奪われた周囲の者たちは、やり場のない悲しみや憤りに身を苛まされることになる。
 魂を、あるいは悲嘆に暮れる人たちを癒すにはどうしたらいいのか。私の答えの一つは復讐である。恨みを晴らすという意味では復讐こそ唯一無二の答えだ。
 少なくとも、旧い法典や教典にも載る「目には目を」の条文や日本の仇討制度などは、公的か私的かは別として、復讐をしっかりと社会の制度に組み込んだものであった。現代の刑法にだって建前上はともかく、底流にその概念が存在していないわけはない。
 しかし一方、人類は、その一員である私も、思い知らされざるを得ないのである。復讐が止むにやまれぬ憤りを鎮めたにせよ、深い悲しみを癒すことにはならないことを。ましてや戦争やホロコーストなどで命を断たれた者たちの家族や友達が復讐を企てたとしても何の解決にもならず、逆に憎しみや怒りや悲しみを増幅させる結果にしかならないことを。
 しからばどうすればいいのか。答えの一つは時間ではないだろうか。つまり「忘れる」ことである。一つは神に救ってもらうことかもしれない。また一つは・・・
 戯曲作者のレオノーラ・ミアノはカメルーン出身でフランス在住の作家である。作家は奴隷を買う側だけでなく売る側、つまりそれがアフリカ沿岸部の族長や商人たちの場合であっても、その罪状を明らかにしてきたという。当然ながらミアノは、アフリカ系の人達から、強烈なブーイングを浴びせられたという。かと言って、白人系が大歓迎するわけはない。彼らは、社会の奥深くに埋めておいた人種差別の黒い塊を掘り出して、白日のもとにさらすようなことはやめてくれというに違いない。
 さてそれはともかくも、レオノーラ・ミアノ作、宮城聰演出、SPACの「顕れ」の幕は開いた。
 波が繰り返し寄せる舞台。頭上には三日月、いや黒い太陽と白い太陽がせめぎ合う。暗い舞台に天上から一条の光が差し込むと、母なる神、イニイエが暗闇から浮かび上がるように登場する。新聞の評に、日本の土偶のような衣装との表現があったが、これはやはりアフリカの土俗風と言うべきだろう。
 生れ出る人間たちは、イニイエのもとから発した魂、マイブイエによって生命を得る。そのマイブイエが地上へ旅立つことを拒否しているというのである。マイブイエは地上へ向かう途中、さ迷える魂、ウブントゥに出会ったのだ。ウブントゥは、かつて奴隷とされ船で運ばれる途中で衰弱死したり、病に倒れ生きたまま海へ投げ込まれたりして弔われぬままいる人間たちの魂である。マイブイエはイニイエに奴隷貿易に加担した大陸の人間、「一千年のつみびと」達を呼び出し、真実を語らせることを願うのだ。それがウブントゥの願いでもあると伝えながら。
 何のために?復讐のためか。剥き出しの暴力と悲劇が舞台上で蘇らされるのか。はたまたより厳しい神の裁決が下されるのか。観客のすべての恐れも懸念も舞台の終盤に持ち越される。
 ミアノは宮城の「マハーバーラタ」や「イナバとナバホの白兎」を観て、この戯曲を演出できるのは宮城しかいないと確信したそうである。
 また宮城も戯曲に流れる死生観や魂の癒しという主題が、我々日本人のそれと酷似しているのに驚いたという。確かに宮城の最近の作品である「シェイクスピアの『冬物語』」「アンティゴネ」「ミヤギ能―『オセロー~夢幻の愛~』」などのテーマは、すべて日本人の死生観を根っこに据えた魂の癒しである。
 さて、呼び出された「つみびと」達が渋々語り出すのは、人類史上最悪の犯罪に加担した理由である。
 ある族長は一族を守るため、またある支配者は富を得るため、ある者は勇気がなかったため、またある者は自らの悲しみを忘れるため等々苦しい告白が続く。被害者からすれば言い訳と思えても、つみびと本人たちにしてみればぎりぎりの状況におけるぎりぎりの選択でもある。たきいみき扮する巫女が後悔にのたうち回る生なましさは突出しており、多くのつみびとの苦しみを象徴させたものであろう。
 常に被害者の立場にいたアフリカの民の中から、多くの加害者があぶり出されたのだ。ミアノがこの芝居を、奴隷貿易の当事者たるアフリカ人や欧米人に演出をさせず、東洋の宮城に託したのも、まさにぎりぎりの選択であったのだろう。
 問題はなぜそこまでして、隠れていた、あるいは隠されていた同族加害者たちを、衆人の前に(勿論舞台上では神の前に)さらし、跪かせ告白を迫ったかである。知りたくなかった奴隷の子孫も多かろう。しかしミアノは、傷つき迷える魂たちを癒すためには、口をつぐむ加害者たちに真実を語らせ、被害者がそれを知るところから始めるしかないと信じたのだ。
 宮城はこの思いを真正面から受け止めた。そしてこれを壮大な叙事詩として舞台上に現出させたのだ。宮城はこれまで舞台演出において、動き手(ムーバ―)と語り手(スピーカー)を分ける技法をよく使ってきた。人形浄瑠璃のように人間の感情を激しく吐き出させたり、あるいは逆に深く秘めさせたりするためであろう。今回の場合、スピーカーを従えた母なる神の存在感も、魂やつみびとの不思議な形象も擬人化も、時に激しく時に優しく打ち鳴らされる打楽器の音楽も、つまりこれまで宮城が培ってきた演劇技法は、すべてこの叙事詩のためだったかと思うほどだ。
 パンフレットで宮城は「答えはない。一種の祈りのようなものを観てもらうしかない」と言っているが、まさに舞台は神の裁きの場であり、魂たちの祈りの場であった。
 復讐でもなく忘却でもなく、真実を語り真実を知ることによって癒すしかない人類の悲劇。ここはもう信じて祈るしかない。
 そこに至る芝居の寓話的展開を物足りなく思った者もいよう。しかし最後の場面、大きな悲しみを抱くイエイニのメッセージに心を揺り動かさなかった者はいなかったのではないだろうか。
 「あなた方には、何度でも立ち上がれる力と知恵を授けてある。そのことを思い出し、忘れないように」
 決然たる言明とはうらはらに、美加理扮するイニイエは「始まりの大陸」の民に果てしない愛と祝福と祈りを与えながら消え去る。
 メッセージは、アフリカの民に向けられたものだ。しかし地球上のあらゆる地域に生きる人類は、すべて「始まりの大陸」から派生した者たちだ。どうしてこのメッセージを他人事と捉えることなどできようか。
 そういえば最後の場面で、頭上の黒い太陽はせめぎ合いながら少し退き、白い太陽が大きく輝きだしたようだった。解決したのではない、すべては我々人類の知恵と勇気に託されたのだ。