美的でありすぎることの問題性
完全な暗闇。舞台手前のオーケストラピットから舞台へと通じる階段だけがほのかに照らし出される。白をまとった女が、体の隅々にまで神経を張りめぐらせながら、ゆっくり、ゆっくりと上がってくる。指先のわずかなカーブにいたるまで完全にコントロールされた、おそろしくスローなムーブメントは、これから始まるのが厳粛な何かであることを予告している。舞台奥に向かって無言のまま歩みを進めるうちに振り鳴らされる鈴の音は、異界への誘いである。宮城聰が演出するレオノーラ・ミアノの『顕れ』は神聖な夢幻の空間のなかで演じられていく。
アフリカにおける奴隷貿易をめぐる物語である『顕れ』には神話的構造がある。すべての生命の母であるイニイエのもとに、輪廻のサイクルを繰り返す魂であるマイブイエと、輪廻のサイクルから切り離されて彷徨っている魂であるウブントゥ(奴隷貿易の犠牲者たち)が集う。そして、1000年の幽閉に処せられている灰色の谷の罪人(奴隷貿易と共犯関係にあった者たち)が召喚され、自分たちの犯した罪を語る。
「世の理」に反する集いだ。この神話的世界において、マイブイエという無垢な存在はウブントゥと切り離されているし、灰色の谷はその臭気ゆえに神々すら足を踏み入れない。にもかかわらず、さまよえる運命の原因となった灰色の谷の罪人の語るところを聞きたいというウブントゥの訴えは、奇跡的に、マイブイエに届いてしまう。マイブイエはウブントゥが自らの同胞であることに気づいてしまう。自らもまたウブントゥのようにさまよえる存在となりうる運命に気がついたマイブイエは、生まれることを拒否するというストライキ行為によって、イニイエに世の理を曲げることを求める。このラディカルな要求の根底にあるのは、分離と隔離(セグリゲーション)を前提とした秩序にたいする叛乱であり、魂の本来的な同胞性への讃歌である。舞台上に出現するのは例外状態にほかならない。本来なら繋がることなど許さていれないものたちが互いに繋げられていく。
しかし、灰色の谷の罪人たちによる自己弁明的な告白――「同胞を奴隷としてヨーロッパに差し出したのは、そうせざるをえない事情があったのだ!どうしようもなかったのだ!」――を経ても、彼らよりはるかにデモーニッシュなところのある女罪人、巫女オフィリスとイニイエの対決を経ても、そして、女神イニイエの裁きが下った後でさえ、完全な和解はもたらされない。出会えないはずの魂たちが出会い、歴史の真実が開示された。刑が短縮されたり罰が軽減されたり、輪廻のサイクルが修復されたりはした。例外状態は解消され、繋がりは断ち切られ、神話的秩序は回復されるだろう。だが、歴史のほうは?
イニイエは歴史的秩序の平定者ではありえない。アフリカという土地に刻まれた過去の傷跡は、演劇のなかのフィクショナルな裁定によって、象徴的にしか癒されることがないだろう。いや、ひとつの演劇によって、数百年におよぶ奴隷貿易の歴史をたちどころに和解に導けるという考え自体がナイーヴすぎるし、当然ながら、ミアノの劇はそのような絵空事を目指してなどいなかった。象徴の世界から現実の世界に橋を架けること、舞台のうえでの出来事と観客の精神世界とを繋ぐことによって、観客のなかにある種の批判性を芽生えさせること、それこそが『顕れ』の秘められた願いではなかっただろうか。イニイエが劇の終結部ですべての魂に真実を語りかけたとき、その言葉の本当の受取人は、マイブイエでもウブントゥでも灰色の谷の罪人でもなく、観客席のわたしたちひとりひとりであったはずだし、アフリカ史的具体性を別の歴史的具体性に繋いでいくことではなかったか。『顕れ』は、被害史観を超克することでもたらされるはずの来るべき時代のための祈願の劇ではなかったか。
しかしながら、宮城聰の演出プランは、ミアノのテクストに内在する緊張関係――神話的解決と歴史的未解決、過去の象徴的和解といつまでも残り続けるかもしれないアポリア――を、前者の方向に引き寄せることだったと言っていいだろう。具体的な参照項は注意深く削ぎ落されていた。アフリカ的でなくはないが、アフリカ的でない要素をふんだんに含んだ衣装。ほとんど何もない舞台。アフリカ的な楽器を使いながら、アフリカ的というよりは無国籍的だった音楽。端的に言えば、宮城の舞台はオリエンタルでSF的であった。非自然主義的に様式化された語りは、シンメトリーを強調した「群」としてのキャラクターの取り扱いと相まって、ミアノの劇のなかの普遍的要素を際立たせることに成功していた。宮城の演出は、歴史的具体性(アフリカにおける奴隷貿易)を消し去ることなく、ミアノのテクストを普遍的な物語(罪と記憶の物語、真実の告白と原因究明の物語)へと、美なるものへと昇華していた。
それはたとえようもなく美しいものだった。しかし、それはどこまで批判的だっただろうか。
絶対的な神的存在であるイニイエだけが二人一役的に扱われたのは、彼女の語る言葉の権威に亀裂を走らせ、神の宣告を批判的に捉え直し、それを人間的な問題として引き受け直すためではなかったのか。スピーカー役のイニイエは裁きの言葉を言い終えると舞台前方に歩み出し、オーケストラピットに沈んでいくが、ムーバー役の物言わぬイニイエは、まるで仏像のようにたおやかに片腕を曲げ、それを虚空に捧げる。指先の先を憧憬するように柔らかく見つめ、ゆっくりと、やさしく、うつくしく、わずかに上体を揺らしながら後ずさっていく。それはおそらく、此岸と彼岸のあいだに、人の世と神の世のあいだに口を開けている深淵の可視化であり、そしてまた、神の言葉だけでは決して癒すことのできない人の世の歴史の傷痕を、美によって贖おうとする女神の祈りの顕れだったのだろう。「世界芸術」とでも呼ぶべき無国籍的な夢幻の瞬間ではあった。しかし、その崇高な美はあまりに陶酔的でありすぎた。物語世界を飛び越えて観客へと語りかけられたはずのイニイエの言葉の現世的な意味を反芻させるための契機を出現させることによってではなく、意味を超越した幽玄な舞いと、加速度的に空間を埋めつくしていく音楽によってミアノの劇を閉じようとしたとき、宮城は、観客を彼岸的な美の虜にしてしまったのではないだろうか。