劇評講座

2019年8月31日

秋→春のシーズン201-2019■優秀■【授業】小田透さん

カテゴリー: 2018

 ウジェーヌ・イヨネスコは『授業』を「喜劇的ドラマ」と呼んだというが、ここで演出家の西悟志がたくらんだことのひとつは、不条理の喜劇性を徹底的に拡張することである。イヨネスコの笑いは、キャラクターのなかからというより、キャラクターのあいだから発生する。足し算はできても引き算ができず、自分の知的能力を信頼できないから考えうる限りの掛け算の答えをすべて暗記している女学生はたしかに滑稽だ。フランス語だとかポルトガル語だとか新ポルトガル語だとかさまざまな言語に翻訳しているように見せかけて、実はずっと同じ言葉を話し続けているだけの先生はたしかに馬鹿馬鹿しい。だが、真に可笑しいのは、ふたりの言葉がかみあわず、ディスコミュニケーションが発生するときだ。女学生のなかにある愚かしさと賢さの奇妙な同居は、先生が教え込もうとするある種の論理に激しく抵抗する。ふたりとも全く真面目で、茶化したところは皆無だ。この全力の真面目さのすれ違いが不思議と笑いを誘う。

 西の仕事は反復と差異を基調にした「創造的編曲」と呼んだほうがいい。西の最も斬新なアイディアは、先生を三役――権威主義的な若者、神経質な中年、飄々とした老年――に分裂させ、それぞれを別の俳優に演じさせたところにある。SPAC芸術総監督の宮城聰の「二人一役」へのオマージュとも見なせるこの手法だが、西の狙いは、同じものを滑稽に反復することではなく、反復から生まれるズレが生み出すメタ認識を観客に押し売りすることにあるようだ。スティーヴ・ライヒがテープ音楽「カムアウト」で鮮やかに証明したように、微細な差異も反復を繰り返すうちに大きなギャップとなる。西は差異の反復から生まれる亀裂を意識的に拡張することで、イヨネスコにはなかったメタ的な次元を新たに作り出す。三人に分裂した先生は、入れ替わり立ち代わりで一つのシーンを演じてみたり、同一シーンを二人同時に演じてみたりするのだが、こうした非リアリズム的な演出は、舞台裏をさらけ出すような剥き出しの舞台と相まって、この劇が「作り物」にほかならないことを暴露する。方言丸出しで観客に語り掛ける老先生――彼こそ開幕前のアナウンスを三度繰り返すことで劇空間と観客を架橋した存在である――は、劇の最中に舞台と観客のあいだの第四の壁を突き崩す。だがその一方で、観客は、三人の先生が女生徒には一つの存在であるらしいということ、先生同士は互いの姿が見えても聞こえてもいないらしいということにも気づかされる。西が観客に贈るのは、舞台で繰り広げられる差異と反復のゲームをすべて見通すことのできる特権的な視座である。

 だがこの神のごとき俯瞰的視点は甘美なものではない。加速度的に進行していくディスコミュニケーションを止める術がわたしたちには与えられていないからだ。唐突に口にされたあと何度も繰り返される「歯が痛い」という女学生の悲痛な訴えは、ますますヒートアップして諸言語についての薀蓄を語る先生の耳には届かない。機械的に反復されるたびに強度を増していくふたりのあいだのディスコミュニケーションが殺人にたどりつくさまを、わたしたちは茫然と見守るしかない。心ならずも、先生の共犯者として。

 女学生の遺体処理をする女中がダルそうな詰問調で明かすように、先生は青髭公のようにうら若き女生徒を次から次へと殺していく衝動的殺人者である。イヨネスコが女学生に名前を与えなかったのも当然だ。彼女は数多くの犠牲者のなかのひとりにすぎない。劇末尾の次の犠牲者の到来は、彼女がすぐさま忘却の彼方に葬られることをほのめかす。だが、劇冒頭への永劫回帰を示唆するこの絶望的な瞬間に、西は劇を別の箇所にループさせる。殺害シーンを差異的に反復させるのだ。

 EXILEのような踊りを披露しながら女学生を追い詰めていく三人の先生が、今度は、女学生の反抗に直面する。それは単なる拒絶ではない。突如としてメタ的な視点を獲得した女学生が勇敢にユーモラスに暴露するのは、ハラスメントの順列的構造である。いじめとは、順番が入れ替わるだけでいじめっ子といじめられっ子の立場が逆転してしまうような、不確かな茶番劇でしかないのだ。こうして、椅子取りゲームよろしく、女学生と三人の先生はいじめられっ子のポジションをなすりつけあう。先ほどは居心地悪く感じられたわたしたちのメタ的な視点に光明が差しこむ。わたしたちは不条理から身をかわす可笑しな可能性を女学生の勇気ある叛逆のうちに見出す。

 だが西の創造的編曲はイヨネスコの不条理な演劇宇宙にあくまで忠実だ。だから救いは訪れず、女学生は殺されてしまう。だが、二度目の終わりですべてが終わってしまったかと思われたそのとき、第二の差異の反復が始まる。女学生はこれまでに殺された他の女学生たちの記憶を呼び覚ますかのように、すでに役から解放されて舞台片付け人に成り下がった先生たちが横一列に並べた椅子のひとつひとつに座りながら、あいうえお順にひとりひとりの名前を、その人と最も関連の深いらしいひとつの言葉(「カブトムシ」「クリームソーダ」「日本一周旅行」)とともに、絶叫していく。シーシュポス的な徒労かもしれない。バックグランドの陽気な歌謡曲は彼女の叫びを音量で圧倒する。彼女が叫んでいるのは見える、しかしその言葉はかき消されて聞こえない。だが彼女は叫ぶことを止めない。とうとう音楽が止まる。叫びはまだ続いている。彼女が最後の椅子を担ぎ上げ、大きく弧を描くように舞台前景を駆け抜け、舞台袖から「舞台俳優」という言葉だけを空っぽの黒いステージにこだまさせるとき、喪の作業というにはあまりに烈しすぎた何かが終わる。

 最も正気を保っているがゆえにわたしたちが最も共感できるかもしれない女中は先生の共犯者でしかない。彼の犯罪を知りながら、それを止めようともせず、事が起こった後に訳知り顔で「だから言ったでしょう」と隠蔽工作を引き受けるとき、そこには悪しき予言が成就したという黒い喜びがあるのではないか。女中にも、そして、わたしたちにも。そうなってはいけない。わたしたちは女学生の悲痛な叫びを見続けることのできる目を持たなければならない、あの羅列された名詞の意味を甦らせることのできる想像的な耳を持たなければならない。この不条理な世界を少しでもわたしたちのための世界に変容させるために。