劇評講座

2019年8月31日

秋→春のシーズン201-2019■最優秀■【授業】高須賀真之さん

カテゴリー: 2018

『授業』―「野ざらしで吹きっさらしの肺」としての叫び―

 ウジェーヌ・イヨネスコ『授業』という作品をはじめて観たのは(というより、「イヨネスコ」という名前をはじめて知ったのは)いまから10年ほど前、まだ学生だった頃に、百景社による公演を観に行った(正確には、公演のお手伝いをして、本番を観させてもらった)ときだった。かなり前のことなので詳細は覚えていないが、途中からどしゃぶりの雨が降りだしたこと(野外公演で、客席には屋根があったが、舞台上は野ざらしだった)、教授が言っていることも怒っている理由もさっぱり理解できなかったこと、そして終盤に一度暗転してふたたび明るくなると、ナイフを握りしめて血塗れになった教授が舞台上に茫然と突っ立っていたこと(雨はその頃にははかったようにやんでいて、余計に静かに感じられた)などが記憶の断片としておぼろげに残っていて、「なんだかこわい芝居を観た」という印象がある(ちなみに百景社は2009年の利賀演劇人コンクールにおいて、この『授業』で演出家の志賀亮史と教授役の村上厚二が優秀演劇人賞をW受賞している)。

 『授業』=「こわい芝居」、という印象をもっていたからだろうか、西悟志演出の『授業』を観終わったとき、なんだか鮮烈な印象を受けたのだった。それは―この芝居を観た人はおそらくだれもが意表を突かれたであろうが―後半の、『大脱走』のテーマソングが流れて以降のシーンが、鮮烈だったからだ。一度死んだはずの女生徒が復活(?)し、教授(たち)に抵抗し、最後には教授(たち)を蹴散らし、舞台後方に一列に並んだ椅子(はじめは教授たちによって倒されているけれど、女生徒がひとりで立て直した椅子)に端から順番に座っていき、おそらくその座席の主であろうひとりひとりの名前と(おそらく)将来の夢を声の限り叫んでいく。『授業』という作品からこんな演出をどうやったら思いつくのか、少し気が遠くなるような気持ちにもなった。
 この最後の演出を、フェミニズム的な演出というように読み取ることもできるとは思うけれど、ただわたしは、「フェミニズム」という枠に括ってしまって論じることに、やや抵抗がある。たしかに、最後のシーンは、男(たち)―もっといえば権威主義的なものたち―に抑圧された女性の反抗、とも読み取れなくはないけれど、フェミニズムとして一度括ってしまうと、ふたたび「男対女」といった、単純な二項対立に絡め取られてしまって、それではけっきょく、『授業』における権力的な構図から、逃れ切れていないように思うからだ。では、西悟志の演出を、どのように読み取るべきか。

 最近たまたま手にした村上春樹『アンダーグラウンド』(『授業』における抑圧の構造と、オウム的なものとの関連を問うことも可能かもしれないが、ここではそれは措いておく)の冒頭で、村上春樹は、「「被害者=一般市民」のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたい」であり、「そこにあるのはほとんどの場合ただの与えられた役割(「通行人A」)であり、人が耳を傾けたくなるような物語が提供されることはきわめて稀であった」と書いている。この指摘はとても示唆的なように思う。『授業』の原作では最後にナチスの腕章が一瞬登場するけれど、たとえばナチスのホロコーストにしても、ヒトラーやアイヒマンなど加害者について語られることは多いが、虐殺されたユダヤ人たちのことが語られることはほとんどない。ユダヤ人たちは単なる「ユダヤ人たち」として括られ、そこには名前がなく、名前の背景にあるはずの物語もない(「ユダヤ人たち」という記号化は、いまのイスラエル・パレスチナの問題にもつながっているように思えるけれど、それもここでは措いておく)。
 そう考えたとき、教授が三人の男優によって演じられるという西の演出は、「三人の男が教授を演じる」ことにポイントがあるのではなく、むしろ、「三人の男が教授を演じ、かつ、彼らが名前で呼ばれる」ことにこそ、ポイントがあるように思える。三人の教授たちは舞台上で役者自身の名前で呼ばれていたが、そのことが重要なのではないか。そして、女生徒は原作のとおり、劇中一切名前で呼ばれない。生徒は「生徒」であり、それ以上でもそれ以下でもない。生徒の台詞が後半から圧倒的に少なくなり、最後の方ではほぼ殺されるために存在しているのではないかとすら思えてくるのは、舞台を観ても脚本を読んでもわかることだが、教授たちは名前で呼ばれるのに、生徒はあいかわらず名前で呼んでもらえないというのは、けっきょく、「ただの与えられた役割」―もっと言えば、舞台を成立させるための単なる記号―であることを、原作以上に強調しているようにみえてくる。
 そうだからこそ、いちばん最後の最後で、ただひとつ残された椅子に女生徒が座り、「布施安寿香!舞台俳優!」と、自分自身の名前―そしてその背後にある物語―を渾身の力を込めて叫ぶという演出に、大きな感動を観る者は受けることになる。椅子以外の一切のものが取っ払われた舞台上で、自分の名を叫ぶこのラストのシーンは、服部真里子の<野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた>という短歌とどこか通底しているところがあるように思える。服部は第一歌集『行け広野へと』のあとがきで「人間の本質は暴力だと思う、とかつて書いたことがあります。暴力とは、相手を自分の思う通りの姿に変えようとすることだと。今でも、人が人と関わることは本質的に暴力だと思っています」と書き、また歌人の山田航は服部の短歌について「他者をコントロールしようと企む「意味」にあまりにも汚染されたコミュニケーションのあり方に疲弊した人に、きっと染み渡るように届くことだろう」と評しているが、『授業』における教授の言説はまさに、“相手を自分の思う通りの姿に変えようとする「暴力」”だったり、“他者をコントロールしようと企む「意味」”だったりに満ち満ちており、そして西演出によるラストシーンは、そういった「暴力」や「意味」たちと、立ち向かおうとしているようにみえる。それはフェミニズムというよりも、もっと広範に、人間が潜在的にもっている「暴力」性だったり、コミュニケーションの背後にある、相手をコントロールしたいという欲望だったり、そういった人間が人間として抱え持っているものから、いかに自由になれるか、ということへの、ひとつのレスポンスだったのではないだろうか。布施安寿香の叫びはまさに、「野ざらしで吹きっさらしの肺」としての叫びであった。
 
 それから(字数がそろそろ多くなってきたので手短に済ますが)、終盤のシーンに向けて『大脱走』のテーマが流れたわけだが、わたしとしてはむしろ、ジム・ジャームッシュ監督の『リミッツ・オブ・コントロール』を思い出した。『リミッツ・オブ・コントロール』の終盤で、どう考えても侵入不可能な敵のアジトに、主人公である殺し屋がなんの説明もなく唐突に侵入しているシーンがある。驚いた敵の「どうやって入ってきた?」という問いに対し、主人公はただ一言「想像力を使った」。わたしはこの一言に度肝を抜かれたのだったが、西演出の『授業』もまた、「想像力」を使って、反転不可能だと思われた構図をひっくり返したといえるだろう。『リミッツ・オブ・コントロール』のエンドロールの最後に、「NO LIMITS, NO CONTROL」という文字が浮かび上がるのだけれど、西版『授業』は、いまの社会を取り巻く、弱者を思い通りにコントロールしたり抑圧したりしようとする雰囲気に対する怒りや反発を、女生徒に託したのではないだろうか。

※山田航の短歌評は、『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』からの引用。